病院の先生と相談をして、母の出した結論は、
父に告知しない
癌センターには入れない
会社の持っている病院で、今でいうターミナルケア(終末期医療、終末期看護)を行う
というものでした。
この是非を、今ここで問う気はありません。
そんなこと、意味のないことです。
***
父が会社の病院に入院をしてから、母が月曜日から金曜日まで、病院に泊まり込んで看護。土曜日と日曜日は、母を休ませるために姉とわたしが交替で病室に。という生活になりました。
母が病院に泊まり込んでいる間、家のことは姉とやりました。
朝は、自分でお弁当を作って中学に通い、帰ってくると、姉と一緒に夕飯を作って食べました。
そして、週末は姉と交代で病室で過ごしました。
こんなことを言うと、人はなんと思うでしょうか?
わたしは、病院に行くのが嫌でたまりませんでした。
余命幾ばくもないと分かっている父と、病室で二人きりになるのが嫌でたまりませんでした。
父のことを嫌いだったわけではありません。
でも、それまで仕事人間でまともに会話したこともないのに、突然病室で二人きりになっても、どうしていいのか分からなかったのです。
わたしは、受験生でした。
私立に行かせるお金はないから公立に絶対に受かりなさい。と、母に言い渡された受験生でした。
けれど、病室で勉強する気にはなれなかったわたしは、日がな一日、本を読んだり、カセットを聞きながら過ごしました。
今ごろ、みんながんばって勉強しているんだろうな。
そう思うと焦る気持ちが湧いてきます。病室にいるのがもったいないとさえ思いました。
また、もう一つ、病室に居たくない理由がありました。
それは、わたしが行くと、父がとても嬉しそうに笑顔を見せることでした。
わたしの父に対する印象をひとことで言うなら、
『威厳の塊』
仕事人間の父の笑顔など、それまで一度も見たことがありません。
それが、嬉しそうな笑顔を見せながら、痛む体を一生懸命わたしの方に向けるのです。
いたたまれませんでした。そんな父の姿は見たくありませんでした。いつでも、堂々と自信に満ち溢れた父しか見たくなかったのです。そんな弱った姿の父を受け止めるだけの器を、15歳のわたしは、まだ持ち合わせていませんでした。
もし、わたしが女優で、今ここで泣かなければならないとしたら、即座にわたしはこの時の様子を思い浮かべるでしょう。そうすれば、わたしは即座に涙をこぼすことができます。そして、それは、わたしの中で深い後悔として、今も心に残っています。
投稿日時: 2015年07月24日
カテゴリ: ブログ