中学3年生の秋口だったでしょうか。
母と姉が目を真っ赤に泣き腫らして帰ってきました。
姉は元々泣き虫でしたが、母は勝ち気で社交的な人でしたので、その母が泣きながら帰ってきたのが、わたしには異様に感じられました。
その頃、父が会社に出かけても、具合が悪いからと途中で帰ってきてしまうような日が続いていました。
新聞記者になりたくてなりたくて、そうして念願叶って新聞記者になった父でした。
仕事が大好きで、喜びと誇りを持っていた人でした。
その父が、出勤途中で帰ってくるなんて、よほど具合が悪いに決まっています。
嫌がる父を、ようやく精密検査に行かせ、その結果を母たちが病院に聞きに行った日でした。
お父さん、癌だって。
お腹を開いたけど、もうどうしようもなくて、そのまま閉じたって。
もって2ヶ月なんだって。
その時のことを、どう書いたらいいでしょう。
わたしは驚くでもなく、悲しむでもなく、ただ黙っているだけでした。
予想もしない母の言葉に、それが何を意味するのか、とっさには理解できなかったのだと思います。
***
それから、怒濤のような日々が始まりました。
父がいなくなるということは、一家の大黒柱がいなくなるということです。
私立に通わせる余裕はなくなるから、絶対に公立に行ってもらわなければ困る。
母は言いました。
秋といえば、すでに受験する高校も決めていましたが、担任の先生と相談の上、変更しました。
さらに、
もうこれから先、あなたはお父さんの力を当てにはできないのだから、自分の力で生きることを考えなさい。
母から、そう宣言されました。
中学3年生のわたしにとって、その言葉は心に深く刻みつけられました。
そして、それは、わたしのその後の生き方に大きな影響を及ぼしました。
***
後から考えれば、母も必死だったのでしょう。
母は、娘のわたしが言うのもなんですが大変美しい人でした。
授業参観に来た時などには、
ゆみこちゃんのお母さん、外人?
と、クラスメイトから必ず聞かれました。
そんな母は、短大生の時に、友人と共に父の大学の学祭に行き、そこで父が母に一目惚れ。
必死で口説き落として、母が短大を卒業と同時に結婚したのでした。
その話を初めて聞いた時は、「あの、威厳の塊のようなお父さんが!?」と、にわかには信じられませんでしたが、なんか嬉しくてほのぼのと暖かな気持ちになったのを覚えています。
母は、勝ち気で社交的な人で、PTAでも活躍したりしていましたが、これまで1度も社会に出て働いたことのない人でした。
それが、40歳を過ぎて初めて働かなければならなくなったのです。
それも、家族を養うために。
どれほどの不安があったでしょうか。
なおかつ、その前に父の看病という大仕事が待っていたのです。
***
家族のみんながみんな、必死の思いでいっぱいでした。
投稿日時: 2015年07月7日
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