小学校の3年生か4年生のときの社会科の授業で、こんな作文の宿題が出ました。
社会主義と資本主義について書きなさい。
わたしは家に帰ってから、一生懸命に考えて作文を書き、提出しました。
後日、作文を返してもらうとき、先生が言いました。
誰に聞いて書いたの ?
わたしは意味が分からず、何も答えることができませんでした。
しばらく経ってから、家で親に聞いて書いたと思われたのだということに、思いが至りました。
悲しかったです。
悔しかったです。
でも、何が悲しかったのか、何が悔しかったのか、そのときは分かりませんでした。
ただ、ずっとモヤモヤしたものを心の中に抱えたまま、この出来事は、いつしか記憶の彼方へと葬り去られていきました。
***
今、改めてあの時のことを振り返ってみて思います。
まず、頭ごなしに、誰か(親?)に聞いて書いたと決めつけられたこと。
そして、そう言われた時に、自分が何も反応できなかったこと。
それらが、悲しくて、悔しかったのだと。
決めつける前に、「どうして、こう書いたの?」と、先生に聞いて欲しかった自分。
「自分で考えて書きました」って、言えなかった自分。
予想外の対応をされると、人間って、思考がフリーズしてしまうんですね。
ポカ~ンとしてしまって、反応できない。
いわゆる、
虚を突かれる
ってやつでしょうか。
後になって気づいても、今さら言えない。
そして、処理仕切れない感情だけが、心に残りました 。
わたしは、わたしを、守れなかった 。
***
今のわたしなら、こう考えます。
先生が思わず誰かに聞いて書いたと思ってしまうほどに、わたしの作文が、よく書けていたんだ 。
と。
それなら、わたしの心に悲しさや悔しさは残りませんものね 。
それから、
嫌なものは嫌。
違うことは違う
と、言う。
これって、とても大切 。
自分の気持ちを尊重するってことは、自分を大切にすることにつながるから 。
投稿日時: 2015年05月2日
カテゴリ: ブログ