知り合いの、そのまた知り合いのお話。
その人(彼女)の御主人は、医者になりたかったのだけれど、
訳あって、苦労して弁護士になったそうです。
そして、その息子さんは医学部を目指すも、なかなか合格せず。
それでも二浪して、どうにかこうにか入れる医学部があったそうです。
けれど、そこでも留年を重ね、国家試験にも未だ合格できず。
経済的には余裕があるので、彼の預金口座の残高が心もとなくなると、
母親は、黙ってお金を振り込んであげている。
とのこと。
それで思ったことです。
もし、息子さんが今年の国家試験に受かったとして、
親にしてみれば、息子が医者になれば、それでめでたしめでたしなのでしょう。
けれど、医者になった彼の先には、これから出会う大勢の患者さんがおられるわけです。
彼は、そんな様々な事情を抱えた患者さんたちに寄り添う医者になれるのか。
と言い切ることはできません。
彼が、それまでの経験を糧として成長できれば、あるいはなれるでしょう。
それより何より、
彼は本当に医者になりたいのか。
そちらの方が大事です。
小さい頃から、親の期待を背負わされ、
自分は医者になるべきだ、
ならなければならない
そんな思い込みの中で生きてきたとすれば、そんな残酷な話はありません。
は
ではなく、
です。
子どもは、親の『(お)供』では、決してありません。
親として、子どもに期待してしまう。
というのは、あるでしょう。
けれど、どこかで氣がついて、その期待を良い形で手放すことができればいいなぁ。
わたしは、そう思います。
それにしても、親の期待は重くて切ない。