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「芝居を観にいきませんか」
出し抜けに山内がそう言った。
「友人で芝居をやってるのが、いましてね。たまには観に行ってやらないと、怒ってくるから」
初めての下北沢。
最先端のファッションの店から古着屋、そして自然食レストランや落ち着いた雰囲気のコーヒー専門店、あるいはダンスのレッスン場までが、狭く入り組んだ道の両側に、個性的な顔つきで並んでいる。
目指す劇場は、線路沿いに10分ほど行った所にあった。1階の窓ガラスには、当公演のものはもちろんのこと、あちらこちらの劇場の公演ポスターが隙間なく張り巡らされていた。中に入るとすぐ左手にチケット売り場。右手のカウンターには、おびただしい数の公演のチラシが、ぎっしりと並べられている。正面の狭い階段を2階に上がったところが、劇場入り口だ。
席に座ると、今にも舞台に手が届きそうな感じがした。
「キャパは、300位ですかね。まあ、この手の芝居を演るには、ちょうどいい広さでしょう。見切りはないし、なかなか良く出来た小屋ですよ」
キャパがどうの、見切りがどうのと言われても、真奈子にはさっぱり理解が出来ない。
「今度、ゆっくり説明してあげますよ。まあ、今夜はのんびり楽しんで下さい」
まだライトの点いていない薄暗い舞台の中央に、回り舞台がしつらえてあった。
開演を知らせるブザーが鳴り、客席の明かりが徐々に暗くなる。先ほどまでざわめいていた客の話し声がだんだんまばらになり、やがてしんと静まり返った。
その静寂を待っていたかのように、眩いばかりのライトが点灯され、芝居が始まった。
中世のヨーロッパを舞台にした風刺劇は、新鮮でおもしろかった。しかし、それよりも彼女の目を魅きつけたのは、やはり衣装だった。
決して絢爛豪華ではないが、気の利いたデザイン、洒落た色使いに真奈子の心は沸き立った。
が、芝居が進行していくに従って、彼女の目は別のものを捉えて、そこから動けなくなってしまった。それは舞台の奥にうづくまる黒子たちの姿だった。
この芝居の場面転換は、舞台中央にしつらえられた回り舞台によってなされていた。場面が変わるたびに奥にうずくまる黒子たちが、両手でそれを必死になって回すのだ。
華やかな舞台の後方の、ライトも届かぬ床に這いつくばって、ただひたすら両手だけを動かしている姿が、舞台に上がることを許されないはんぱ者のようで、真奈子にはたまらなかった。
「まるで、私だ。あそこにいるのは、まさに私だ」
耐え切れず、目を伏せる。激しく高鳴る胸の鼓動が、山内に聞こえやしないかと心配でからだが縮こまる。
ようやく幕が下りた。客席が明るくなって、ほっと顔を上げると、心配そうな山内と目が合った。恥かしさにそそくさと席を立つ。
劇場を出て、街灯に照らされた線路沿いの道を無言のまま早足で歩く真奈子を気遣って、山内が尋ねた。
「芝居、面白くなかったですか」
無言で歩き続ける真奈子。
「つまんなかったかなぁ。そうか、つまんなかったか」
山内がつぶやく。
「ちがうんです」
突然立ち止まる。
「ごめんなさい。ちがうんです」
「え、なにが」
「芝居、面白かったです。ホントです。私、初めてなんです。生の舞台見るの。なんか、すっごく新鮮だった。話だって面白かったですよ。特に衣装、衣装が素敵だった」
「ああ、デザイン学校に通ってるんでしたよね。あんな貧乏劇団の衣装でも、参考になりましたか」
「ええ、とっても。限られた予算の中で、よく工夫して作ってあったと思います。センスいいですね、あの劇団の衣装の担当の人。ホント、ラインといい色使いといい、やっぱりデザインの仕事って、素敵だなあ」
「少しは、やる気が戻ってきたかな。それなら誘った甲斐もあったってもんですよ」
「ただ」
「ただ?」
「あの人たち。あの回り舞台を回していた人たち」
「黒子ですか」
「ええ、あの黒子の人たち、悲しくないんでしょうか。あんなふうに床に這いつくばって。だって、目の前で役者さんたちがライトを浴びているっていうのに……」
山内が真奈子の顔を、じっと見つめた。
「舞台の上でライトを浴びる者だけが、美しいわけではありませんよ。それに彼らだって、ああいう経験を重ねながら、いつか自分もって、ファイトを燃やしているんじゃないのかな」
真奈子は空を見上げた。
いつもなら、ネオンの明かりに邪魔をされて何も見えない東京の空に、小さく輝く一つの星を見つけた。そんな気がした。
つづく