連載小説『お由布』 その五

   五

 

 万事がそうであった。清之助の場合は、小言というより頭ごなしの命令である。

「ああしておけ。こうしておけ」

 そんな言い方をされると、お由布は何も言えなくなってしまう。

「はい、分かりました」

あるいは、

「申し訳ありませんでした。これから気を付けます」

と、頭を下げるほかはない。

 説明したり言い訳をすることは許されなかった。それはすなわち口答えであって、清之助の最も苦手とするところであった。万が一、ひと言でも言い返そうものなら大変である。お由布が泣いて泣いて、泣きじゃくりながら己の非を責め、平身低頭、謝り続けない限り、清之助の怒りは解けないのであった。お由布に非がある場合は言うに及ばす、全く逆の場合でも、あるいは、どうにも虫の居所が思わしくない時だったりすると「なんだ、その顔つきは」とか「そんな言い方があるか」と、追い討ちを掛けてくる。そんなときは、とにかく頭を下げ続けるしかないのであった。

 お由布とて、自分が悪いと思わない時までも頭を下げるのは、いかにも気持ちが収まらなかった。が、狭い家の中で、いつまでも不機嫌に黙りこくったままの清之助を目の前に、居たたまれない心持ちになり、結局は頭を下げるのだった。

 そんなことが、月に何度か繰り返されるうち、お由布は、自分はなんと出来の悪い女房なのかと思うようになっていった。

 清之助の機嫌が悪くなるのは、ひとえに自分の出来が悪いからだ。そうに違いない。きっと、そうだ。そう思おう。そういうことにしよう。それでいいのだ。   

 ささくれ立って居場所を見失いそうになりそうな自分の心に言って聞かせて日を送る、そんな習慣がいつしか身に付いていた。

 

 梅の香り漂う、ある日の午後。清之助が出かけて一人になったお由布は、日野屋の主夫婦のことを思いだしていた。確かに与平はいつも胸を張って威張っていたように見えなくもない。だが、そばに寄り添うお初と、時折顔を見合わせて微笑み合うのを何度も見ている。そのたびに、「これが夫婦というものか。この二人の間にあるのが情愛というものなのか」と、世間知らずのお由布は思っていた。さらに記憶をたどって、自分の両親のことを思い出してみても、

「いいかげんにしやがれ」

「なに言ってんだい」 

 お互い声を張り上げて喧嘩をしていたかと思うと、いつのまにか仲良く茶を飲んで笑い声を上げていたっけ。

 そんな、これまでに知っている夫婦とは、自分たち夫婦は、明らかに何かが違うと思うのだが、それがなんなのか、お由布には見当がつかないのだった。夜に肌を合わせていても、いつも薄紙一枚、そこにはあった。たとえ寒い夜だったとして、なぜか底冷えのするような寒さが、お由布の体と心を芯から冷やした。

 いっそ長屋のおかみさん連中に話してみようかと思ったこともある。

 ある日、井戸端で洗い物をしている時に、勇気を出して話そうとした矢先、

「お由布さんは、いいわねえ」

と、向かいの棒手振りのおかみさんが不意にお由布に話しかけた。

「だって、そうでしょ。清之助さんは、物腰が柔らかくって、物静かで優しそうだもの。うちの亭主なんて、言葉は汚い、飲むと騒ぐ、大変なもんよ」

 いえ、実は…と言いかけると、別のおかみさんが畳みかけるように、こう言った。

「そりゃあ、大店の、なんせ支配人さまだもの。あんたんとこの宿六とは違って当たり前さ」

 おかみさんたちは口々に、「そりゃ、そうだ」と高らかに笑って、それぞれの家へと戻っていき、お由布は一人井戸端に残された。

(わかってもらえない)

 お由布は思った。確かに清之助は、賭け事はやらない、女遊びもしない。酒も付き合いで多少は飲むが、飲んで暴れることもない。傍から見れば、なんとも出来のいい夫なのだった。

 誰にもわかってもらえない。お由布は、一人っきり、底知れない暗い穴へと落ちていくような感覚に襲われるのだった。

 

つづく

連載小説『お由布』 その四

   四

 

 日野屋の人々を新しい家族とも思って生きてきたお由布にとって、彼らと離れることは実に心寂しいことであり、考えたこともないことなのだった。しかし、突然の縁談話によって、新しい世界が開けようとしていた。

 祝言の日、初めて見た清之助は、大店の奉公人としての歳月の積み重ねからか、年齢以上の落ち着きを持っており、その柔らかな物腰は、お由布に安心感を与えた。      

    この先は良き妻として、そしていずれは良き母として、清之助と共に手を携えて、これからの人生を穏やかに生きてゆけばいい。清之助という頼れる存在を得た今、もう一人でがんばる必要はない。生きるために働く必要もなくなった。お由布の胸は、新しい生活への夢や希望ではちきれそうであった。

    新たな住まいは、清之助の店がある駿河町から程近い松田町に定まった。

 

   三橋屋というのは、いわゆる江戸店持京商人で、奉公人は全て本店のある京都出身者である。子供たちは幼いうちに本店の京都で奉公に上がり数年の修業ののち、江戸店勤めのために、はるばる街道を旅してやってくる。そのうちの一人が清之助であった。

    幼くして親元を遠く離れ、言葉も習慣も違うこの江戸で、二十年近くも仕事に精を出し、支配人にまでたどり着いた清之助は、すこぶるつきのまじめな男であった。 

   祝言を挙げてから五日目、お由布は日野屋にお礼の挨拶に行った。主夫婦は、早くして先立っていったお由布の両親も、これで安心するだろうと穏やかな笑顔を見せ、数々の土産まで持たせてくれた。そんな表情を見せられると、お由布は胸の中にある小さな不安を口に出すことが出来なかった。

   実は……。

 妻となり初めての朝。明六ツの鐘が鳴るのももどかしく、いそいそと起き出した。朝食の準備にかかるためである。開けた土間の窓からは、朝靄を震わす豆腐や納豆売りの声が聞こえてくる。へっついに掛けた鍋からは飯の炊ける香ばしい香りが漂ってきている。まもなく蜆売りが来るだろう。所帯を持って初めての朝は、炊き立ての飯に蜆の味噌汁、そして焼き魚だ。 

  遠くに聞こえていた蜆売りの声がやがて近づいてきた。お由布は流しに置いてあったざるを手に、朝日の降り注ぐ往来をいそいそと駆けて行った。

   父と母を立て続けに亡くし、奉公に出てからは他の奉公人との共同生活。それらを思えば、今この手にある生活のいかに恵まれていることか。

 蜆を求めると、お由布は朝餉の支度にとりかかった。部屋の奥では、まだ清之助が静かな寝息をたてて眠っている。昨夜の出来事が頭を過りお由布は一人頬を染めた。おかげで、うっかり魚を焼き過ぎてしまった。それでも何とか膳は整のった。

 丹精こめた膳を前に、清之助はどんな表情を見せるだろう。嬉しそうに笑うのか、照れ臭そうに俯くか。美味いと言って食べてくれるか、魚が焼けすぎだとからかうだろうか。

   だが……。

 奥の部屋から起き出した清之助は、膳を見るなり顔をしかめた。一体なにが気に入らないのか分からない。まずは熱いお茶かと、慌てて湯飲みを差し出すと、

「こんな熱いお茶が飲めるか」

と、短く言い放った。

 呆気に取られて声が出ない。ただ呆然と清之助を見つめるばかり。

「何をしている。早く茶を入れ直せ」

  清之助の言葉が冷たく響いた。お由布は、慌てて冷ました湯でお茶を入れ直した。清之助は、そのお茶を膳のご飯にかけるとすするように食べて出掛けていった。

     お由布は、何も言えず呆然と見送った。自分の描いていた生活とのあまりの隔たりに、心の奥につんとした痛みが走った。

 

 結局、日野屋には清之助のまじめさや、頼りになる様子ばかりを話して聞かせるに留めた。折角、ほっと安心している与平たちに、余計な心配はさせたくなかったからである。

  挨拶を終えて松田町の家に戻ると、夕餉には、薄味の煮物にお初の持たせてくれた瓜の浅漬けを並べた。

 清之助が帰ってくると、お由布は日野屋に帰してもらった感謝の意味も込めて、楽しく過ごしてきた時を一生懸命に語って聞かせた。ところが、清之助はふっと一息つくと、

「お前が一人で楽しく過ごしてきた話を聞かされて、何が面白い。そうした話は二度としてくれるな」

と言って、後はひと言も口を利かずに食事を終えた。

    幼い頃から親元を離れて奉公一筋に励んできた清之助に、日野屋での楽しく過ごした話などをした自分に気配りがなかったのだろうかと思いあぐねていると、

「何をぼんやりしている。お前のいた日野屋では、主の機嫌を損ねても、店の者はそうやって、ただ、ぼんやりとしているのか」

   お由布には、清之助の言わんとすることがわからなかった。

「言うべき言葉があるのじゃないか」

    苛立つように、清之助が短く言った。はっとしたようにお由布は言った。

「申し訳ありませんでした」

「そうだ。それでいい。この家にあっては、わたしがお前の主だろう」

    お由布の心から、光が消えた。

 

 つづく

 

連載小説『お由布』 その三

 三

 

 あれから七年。慣れた手つきで料理を盛り付け、足裁きも颯爽と盆を運ぶ様子も板に付いてきていた。お由布は十七歳になっていた。

「なにがあっても、ここで生きていく。ここしか、もう生きる場所はない」

 十の春に思い定めて、ここまで一生懸命に働いてきた。目的なければ夢もない。ただ生きるためだけに働いてきた。

 幸い日野屋の人々は、主夫婦の人柄そのままに、優しく穏やかな人達ばかりだったので、お由布にとっては、まさにここが新しい家、新しい家族そのものだった。

 

 冬の厳しい寒さも緩み始めた、ある日の午後。

 お由布は店の番頭さんに呼び止められた。だんな様がお呼びだから、奥の座敷に行くようにとのことだった。店の主から呼ばれることなど、ましてや奥の座敷に行くなど、それこそ滅多にあることではない。

「一体、何事だろう」

 自分でも気づかぬうちに、何か粗相でもしでかしたのだろうか。暇でも出されたら、どうしよう。そんなことにでもなったら、自分には帰る家もない。 

 胸のうちは不安で一杯になり、奥の座敷へ向かう廊下を歩く足は宙を行くようで、どこか頼りない。

「だんな様、お由布でございます。お呼びと伺って急ぎまいりました」

 障子の外から声をかける。緊張で背中が強張る。心なしか、声が震える。

「お入り」

 与平の低く落ち着いた声が聞こえた。

「失礼いたします」

 顔も上げられない。息も詰まる思いで障子を開ける。

「いいから、お入り」

 重々しさの中にも柔らかさを含んだ声で重ねて言われ、お由布は頭を下げたまま、部屋の中へとにじるように入った。

「かわいそうに。すっかり怖気づいてしまっているではありませんか。あなたが、あんまりいつも怖い顔ばかりしているからですよ」     

 お内儀さんの優しげな声に、お由布はようやく顔を上げた。

 視線の先に「日野屋」の主、与平と妻お初の笑顔があった。

「お由布、お前いくつになった」

「はい、十七でございます」

「うん、そうだったな。これまで本当によく働いてくれた。ありがとう」

「とんでもございません」

 お由布は、再び頭を下げた。体の強張りが一層強くなる。

「はっはっはっ。何もそんなに硬くなることはない。ほら、ちゃんと顔をお上げ。さあ」

 おずおずと顔を上げる。視線の先に、いつも遠くからではあるが、見慣れた主人の穏やかな笑顔があった。

「お由布、喜ぶといい。お前に縁談だ」

 思ってもみなかった話である。

 縁談は日本橋駿河町の呉服問屋三橋屋からもたらされた。相手は、その三橋屋の支配人になったばかり。ようやく住み込みから通いとなり、妻帯を許された三十二歳の男で、名は清之助という。

「なに、少し年は離れているが、早くにおとっつぁんを亡くしたおまえには、かえっていいだろう。なにより三十二歳で支配人になるとは、大変な出世だよ」

 与平の言葉にうなずいて、お初が明るい声で続けた。

「ほら、先だって呉服問屋の方々の集まりが、うちの店であったでしょう。あの時に先方さんがおまえを見染めたそうよ」

 おまえは果報者だと与平は言った。これは良縁だと、お初が微笑んだ。そうかもしれないと、お由布は思った。

 

 自分が嫁に行くなど考えたこともなかった。日野屋を家とも思い、そこで一生を終えるのだと勝手に決めていた。

「それが嫁入り? わたしを見染めたなんて」

 お由布は、自分の顔をまともに鏡で見たことなどない。たまに店に来た客から、器量よしだと言われたことはあるが、なにしろお酒も入っている席でのこと。客の戯言、軽口だと思っていた。店の者にも、きれいになってきたと言われたことがないでもないが、それもまた、みんなの優しさから出た言葉だと思っていた。それが見染められての嫁入りとは。夢ではなかろうか。

 

 話はとんとん拍子にまとまり、祝言は三月初旬の佳き日と決まった。

「桃始めて笑うといってね、桃の蕾がほこんで、花が咲き始めるころのことをさしているのよ。縁起がいいでしょう」

 お初が教えてくれた。

 

 

つづく