連載小説『お由布』 その十

 十

 

 夏から秋と、季節は足早に過ぎ去っていき、木の葉が徐々に色づき始めた。

 ふとしたことから引いた夏風邪が元で、冬の間中お由布は寝たり起きたりの毎日を過ごした。時折り、清之助が心配そうな視線を寄越すが、それすらも煩わしいと感じてしまう。

 

 

 立冬。

 外では一足早い北風が木々を揺らし、ざわざわと悲しげな音をたてていた。枝にわずかばかり残っていた木の葉も、一枚残らず散り落ちた。

 お由布は、夕餉の支度を終え清之助を待っていたが、その日はいつになく帰りが遅かった。ようやく夜半になって帰ってきた清之助の顔は、行灯の明かりの暗さも手伝ってか、ひどくやつれて見えた。

「今日、店でボヤ騒ぎがあってな」

 重い口調で、ぼそりと言った。

「ボヤ騒ぎ」

「ああ。幸い気づくのが早くて大事には至らなかったが、あと少し遅れていたらと思うとぞっとする」

と、俯き加減で首を振る。

「店はもちろん、ここまで折角勤めてきた私の身だって、どうなっていたことか」

 清之助は、ふうっと大きなため息をついた。しかし、そんな清之助の様子とは裏腹に、お由布の心は高揚していた。

 清之助が、こんな弱気なところを見せたのは、これが初めてだった。ああ、やっぱり私たちは夫婦なのだと思った。こんな時こそ役に立たなければ。元気づけなければ。お由布は思った。

「大丈夫。何とかなりますって」

 清之助の手を握り締めて、努めて明るい声で言った。精一杯の励ましのつもりであった。そして、共に苦労する覚悟は出来ているという、これも精一杯の気持ちを込めたつもりだった。

 清之助が驚いたように目を見開いて、お由布をまじまじと見つめた。と、次の瞬間、その手を振りほどくと、呆れたように言った。

「まったく、お前は何も分かっちゃいないね」

 そして、大きく肩で息をついた。

「私の身に起きることは、お前にも関係のあることなんだよ。そこのところが、お前にはちっとも分かっちゃいない」

 清之助の言葉に、お由布の心が凍りついた。

 何も分かっていないのは、清之助の方ではないか。お由布は、ただじっと振りほどかれた手を見つめ続けていた。

    お由布の目には、あるいはその指の間から、はらはらと零れゆく砂が見えていたのかも知れない。

 

 翌朝早く、せわしげに清之助は店へと出かけていった。お由布の方を振り返りもしない。

 これまでの月日は、一体なんだったのか。いつでもどんなときでも口答えせず、少しでも不機嫌な色が見えたと感じると、即座に「申し訳ありまでんでした」と頭を下げる。その繰り返しの日々。しかし、繰り返しの中できっと何かが培われている、何かが積み重ねられていると信じていた。だからこそ……。

 だが結局、二人の間には何も育ってはいなかった。何一つ重ねては来られなかった。それを思い知った。あるのはただ、空疎な日々の積み重ねと、心の中に澱のように溜まった疲れだけだった。

 

 

 

連載小説『お由布』 その九

 

 

 いつでもどんなときでも口答えせず、少しでも不機嫌な色が見えたと感じると即座に「申し訳ありませんでした」と頭を下げるようになってから、夫婦の間には波風ひとつ、そよとも吹かなくなった。

 だが、それと入れ替わるように、時折お由布の体に正体不明の風が吹く。その風は、時に頭の芯を揺らし、時に心の臓を吹き抜ける。

 今日は珍しく頭の痛みもやってこず、久方ぶりに柳原の土手に立ち並ぶ古着屋を、何軒か覗くつもりで家を出た。柳原沿いに建っている稲荷には、たぬきが祀られている。「たぬき」は「他抜き」に繋がり、出世の御利益があるとかで、小さな稲荷社にもかかわらず、先ほどから入れ替わり立ち代わり人々がお参りにやってきている。

 たいした距離でもないのに、途中で胸の辺りにどくどくと脈打つような息苦しさを感じて足を止めた。また、悪い風が吹いてきたのか。お由布は崩れ落ちそうな思いを吹っ切るように、重い足を踏み出した。

 柳原界隈は、いつも通り賑わっていた。まもなく五月二十八日の川開きだ。両国橋で繰り広げられる花火の打ち上げを見に行くための新しい着物を手に入れようと、大勢の人々があちらの店こちらの店と、楽しそうに新しい着物を探して回っている。

 新しい着物といっても、文字通り新調するわけではない。江戸時代において布、特に手間のかかる着物は貴重品で、高価なものであった。それゆえ庶民はもっぱら古着屋を利用していたのである。

 古着屋の店先に柄も色もとりどりの涼しげな着物が吊り下げられている。それらを見ていると、先ほどの息苦しさも幾分和らいだ気がする。

 柿渋に麻の葉も小粋だが、銀鼠の三桝格子にも心惹かれる。藍の絣も夏らしい。各店の自慢の品を見て回るうちに、お由布の心も次第に浮き立ってきた。

「たまには買って帰ろうか」

が、結局は何も買わずに帰ってきた。古着の一枚くらい買ったところで、清之助は文句を言わない。文句を言わないと頭でわかってはいても、心が躊躇した。いつもそうだった。そうして結局何もできず、何もできずにいるくせに、後ろめたさだけは始終付いて回った。

 

 あとふた月で七月二十六日。二十六夜待だ。この夜の月の出に際して、光が三つに分かれて輝く様を、阿弥陀、観音、勢至の三尊の出現になぞらえて、これを拝むと幸運が得られると信じられていた。

「ぜひにも見てみたい」

 お由布は、晴れぬ心のもやに悩まされながらも、二十六夜待に思いを馳せていた。

 

 早くにふた親を亡くし、一生懸命に気を張って生きてきた。そんな時に、頼って甘える先ができたと喜んですがりついた先が、清之助の膝の上であった。暖かく包み込んでくれるはずだった膝の上には、しかし遠目には見えなかった蜘蛛の糸が張っていた。柔らかそうでいながら決してお由布に自由を許さない。いつしかお由布の心の芯にまで、がんじがらめに絡みつき、息をするのも苦しくなっていた。

 あんなに楽しみにしていた二十六夜待に出かけることは叶わないまま、夏は終わった。 

 前日の夜から、お由布はひどい頭痛に悩まされて、食事どころか起き上がることすらできなかった。さすがに心配した清之助が、「大丈夫か。寿司を買ってきてやったぞ」と、帰りに屋台の寿司を買って帰ってきたまではいいが、そう言って座るなり、常に戻ってそれきり動かない。仕方なく、お由布が痛む頭を押さえながら起き上がり、常の通りに茶を入れた。

 

つづく

 

 

連載小説『お由布』 その八

 

   八

 

   得意先を回ったあとで丁稚を先に店に帰すと、清之助は一人茶屋の店先に座っていた。目の前を多くの人々が通り過ぎていく。もちろん夫婦連れも。

   清之助にとって、十五も歳下のお由布はいつでも頼りなくて危なっかしいのであった。それが清之助の気がかりであり、また愛しいと感じるところでもあった。だから、お由布の顔を見るとつい何か言いたくなる。

 守ってやりたいと思うことは、裏を返せば干渉することであり、また支配することでもあった。清之助の愛情は、常にそういった形でお由布の上に注がれていた。

 その上、日を追うごとに、年を重ねるごとに増してくる仕事上の責任が、だんだんと清之助を気難しい男にしていった。その気疲れが、大きなため息となってお由布の上に覆い被さっていく。

   清之助とて、お由布のことを大切に思わないわけはない。しかし、幼くして親元を離れ、表ばかりか裏までも男の奉公人で占められている江戸店で、ひたすら仕事に励んできた清之助には、女のことが実はよく分からずにいたのである。

「支配人になったのだから、妻を迎えてはどうか。その方が仕事にも身が入ろう。誰か思う人はいないのか」

と聞かれ、かつての日野屋での会食の際に見かけたお由布のことを話したところ、とんとん拍子に話がまとまったのが、この度の嫁取りであった。

 

   大店での奉公は、その修行の厳しさに丁稚のうちに三分の一が脱落していく。無事、手代から番頭にまで出世してきても、酒におぼれて身体を壊したり、女ができて出奔した者。数え上げればきりがない。そんな世界を目の当たりにしてきた清之助は、ただひたすら真面目に働いてきた。だからこそ、今ここにこうして居られるのである。それが清之助の自負であり、支えであった。そうでなければ、酒もやらず、女遊びにも走らずに生きてきた自分の人生が、あまりに情けない。

   お由布との縁談が進んでいく中で、幼くしてふた親を亡くし、早くから奉公に出たという生い立ちを聞いて、そういう娘とならやっていけるだろうと思った。しかし、生身のお由布からふとした折に顔を覗かせる負けん気の強さややんちゃさが、清之助を戸惑わせた。それさえなければ、お由布は可愛い嫁であった。だから、その邪魔者をお由布の中に封じ込めようとした。封じ込んでおくうちに、それは自然と消えていく。そういうものだと信じていた。

   だが、どうしたことだろう。表面的には姿を見せなくなったそれらが、時折ゆらゆらと陽炎のような気配だけを忍ばせる。

   清之助は考えあぐねていた。今更これまでのやり方を変えることなどできはしない。そんなことをしたら、清之助のこれまでの人生までもが、足元から崩れていってしまいそうだった。そんなことはできない。できないのだ。

「お勘定、ここに置くよ」

 店の奥に声をかけ、何かを吹っ切るように湯飲みを置くと、清之助は店へと戻っていった。

 店の亭主が、不思議そうな顔で見送っていた。