連載小説『お由布』 その十一

 

   十一

 

「この間のは、どうでした。ね、面白かったでしょう。今度はこれはどうかって、幸さんが」

 いつの間にか、作治を通して幸吉の勧める本を読んでは感じたことを作治に話すのが、お由布の唯一の楽しみとなっていた。

 作治から聞いたところによると、幸吉はもともとは近江の商家の奉公人だったそうだ。

「それがどこでどうなったんだか。今では、一人で江戸と上方を行ったり来たりの仲買人ですよ」

 そう言いながら小指を立てると、いたずらっぽく笑って見せた。

 ほかの者がやると下品に見える仕草も、作治がやるとどこか憎めないのだった。思わずお由布も小さく笑った。

「中にはあくどいことをやってる奴らもいるらしいけど、幸さんはそんなことはしない。評判はいいですよ」

「そう。そうでしょうね。なんかわかる気がするわ。ところで、幸吉さんて、おいくつくらいの方なのかしら」

 幸吉に勧められて読んだ何冊目かの本を作治に返しながら、お由布はさり気なく尋ねてみた。

「歳ですか。歳は……、確かもうじき三十じゃなかったけな。なんなら今度聞いておきましょうか」

「い、いえ、いいのよ。別にそんなこと、わざわざ聞いてもらわなくっても。話のついでに聞いてみただけだから。へえ、そう……。それじゃあ……、それじゃあ、きっと、おかみさんもお幸せでしょうね」

 なぜか胸のあたりが、きゅんとした。

「いや、それがまだ独り者で。あの通りの人柄だから、世話をする人も何人かいたようですけどね。子供の頃に、親でかなり苦労したようで。所帯を持つ気になんてなりゃしないって、いつか蕎麦屋で一杯やった時に、笑いながら言ってたっけ。でも、なんか寂しそうだったね。よっぽど辛い目にあったんでしょうかねぇ。俺なんか、もうこの頃じゃ、女なら何でもいいかって気になってるけどね。誰も世話なんてしてくれやしないし、女の方でも相手にしやしない……ったく、見る目のない女が多すぎるってもんだぜ」

 作治は一人でぶつぶつ言いながらも、楽しそうに帰っていった。角を曲がった、すぐそこの小間物屋の娘と好い仲なのを、お由布は知っていた。帰りに娘の所へ寄っていくつもりがあるからこそ、この家にも足繁くやってきてくれるのだ。

「おや、作治さん、これからお駒ちゃんの所へお出ましかい。よ、色男」

「てやんでぇ、そんなんじゃねぇよ」

「なに照れてんだい。いい年をして、可愛いとこあんじゃないのさ」

「うるせぇ、くそババア。本を借りる気がないなら、おとなしく家に引っ込んでいやがれ」

 外では、長屋のおかみさんと作治との軽妙なやり取りが、しばらく続いていた。

 

 辛いから外に助けを求める人間と、辛いからこそ何も求めなくなる人間がいるのだ。幸さんて人はきっと後者なのだ。わたしは……わたしは、どちらだろう。

 お由布は作治の置いていった本の表紙を、愛しげに心を込めてそっと撫でた。

 

 

 

連載小説『お由布』 その十

 十

 

 夏から秋と、季節は足早に過ぎ去っていき、木の葉が徐々に色づき始めた。

 ふとしたことから引いた夏風邪が元で、冬の間中お由布は寝たり起きたりの毎日を過ごした。時折り、清之助が心配そうな視線を寄越すが、それすらも煩わしいと感じてしまう。

 

 

 立冬。

 外では一足早い北風が木々を揺らし、ざわざわと悲しげな音をたてていた。枝にわずかばかり残っていた木の葉も、一枚残らず散り落ちた。

 お由布は、夕餉の支度を終え清之助を待っていたが、その日はいつになく帰りが遅かった。ようやく夜半になって帰ってきた清之助の顔は、行灯の明かりの暗さも手伝ってか、ひどくやつれて見えた。

「今日、店でボヤ騒ぎがあってな」

 重い口調で、ぼそりと言った。

「ボヤ騒ぎ」

「ああ。幸い気づくのが早くて大事には至らなかったが、あと少し遅れていたらと思うとぞっとする」

と、俯き加減で首を振る。

「店はもちろん、ここまで折角勤めてきた私の身だって、どうなっていたことか」

 清之助は、ふうっと大きなため息をついた。しかし、そんな清之助の様子とは裏腹に、お由布の心は高揚していた。

 清之助が、こんな弱気なところを見せたのは、これが初めてだった。ああ、やっぱり私たちは夫婦なのだと思った。こんな時こそ役に立たなければ。元気づけなければ。お由布は思った。

「大丈夫。何とかなりますって」

 清之助の手を握り締めて、努めて明るい声で言った。精一杯の励ましのつもりであった。そして、共に苦労する覚悟は出来ているという、これも精一杯の気持ちを込めたつもりだった。

 清之助が驚いたように目を見開いて、お由布をまじまじと見つめた。と、次の瞬間、その手を振りほどくと、呆れたように言った。

「まったく、お前は何も分かっちゃいないね」

 そして、大きく肩で息をついた。

「私の身に起きることは、お前にも関係のあることなんだよ。そこのところが、お前にはちっとも分かっちゃいない」

 清之助の言葉に、お由布の心が凍りついた。

 何も分かっていないのは、清之助の方ではないか。お由布は、ただじっと振りほどかれた手を見つめ続けていた。

    お由布の目には、あるいはその指の間から、はらはらと零れゆく砂が見えていたのかも知れない。

 

 翌朝早く、せわしげに清之助は店へと出かけていった。お由布の方を振り返りもしない。

 これまでの月日は、一体なんだったのか。いつでもどんなときでも口答えせず、少しでも不機嫌な色が見えたと感じると、即座に「申し訳ありまでんでした」と頭を下げる。その繰り返しの日々。しかし、繰り返しの中できっと何かが培われている、何かが積み重ねられていると信じていた。だからこそ……。

 だが結局、二人の間には何も育ってはいなかった。何一つ重ねては来られなかった。それを思い知った。あるのはただ、空疎な日々の積み重ねと、心の中に澱のように溜まった疲れだけだった。

 

 

 

連載小説『お由布』 その九

 

 

 いつでもどんなときでも口答えせず、少しでも不機嫌な色が見えたと感じると即座に「申し訳ありませんでした」と頭を下げるようになってから、夫婦の間には波風ひとつ、そよとも吹かなくなった。

 だが、それと入れ替わるように、時折お由布の体に正体不明の風が吹く。その風は、時に頭の芯を揺らし、時に心の臓を吹き抜ける。

 今日は珍しく頭の痛みもやってこず、久方ぶりに柳原の土手に立ち並ぶ古着屋を、何軒か覗くつもりで家を出た。柳原沿いに建っている稲荷には、たぬきが祀られている。「たぬき」は「他抜き」に繋がり、出世の御利益があるとかで、小さな稲荷社にもかかわらず、先ほどから入れ替わり立ち代わり人々がお参りにやってきている。

 たいした距離でもないのに、途中で胸の辺りにどくどくと脈打つような息苦しさを感じて足を止めた。また、悪い風が吹いてきたのか。お由布は崩れ落ちそうな思いを吹っ切るように、重い足を踏み出した。

 柳原界隈は、いつも通り賑わっていた。まもなく五月二十八日の川開きだ。両国橋で繰り広げられる花火の打ち上げを見に行くための新しい着物を手に入れようと、大勢の人々があちらの店こちらの店と、楽しそうに新しい着物を探して回っている。

 新しい着物といっても、文字通り新調するわけではない。江戸時代において布、特に手間のかかる着物は貴重品で、高価なものであった。それゆえ庶民はもっぱら古着屋を利用していたのである。

 古着屋の店先に柄も色もとりどりの涼しげな着物が吊り下げられている。それらを見ていると、先ほどの息苦しさも幾分和らいだ気がする。

 柿渋に麻の葉も小粋だが、銀鼠の三桝格子にも心惹かれる。藍の絣も夏らしい。各店の自慢の品を見て回るうちに、お由布の心も次第に浮き立ってきた。

「たまには買って帰ろうか」

が、結局は何も買わずに帰ってきた。古着の一枚くらい買ったところで、清之助は文句を言わない。文句を言わないと頭でわかってはいても、心が躊躇した。いつもそうだった。そうして結局何もできず、何もできずにいるくせに、後ろめたさだけは始終付いて回った。

 

 あとふた月で七月二十六日。二十六夜待だ。この夜の月の出に際して、光が三つに分かれて輝く様を、阿弥陀、観音、勢至の三尊の出現になぞらえて、これを拝むと幸運が得られると信じられていた。

「ぜひにも見てみたい」

 お由布は、晴れぬ心のもやに悩まされながらも、二十六夜待に思いを馳せていた。

 

 早くにふた親を亡くし、一生懸命に気を張って生きてきた。そんな時に、頼って甘える先ができたと喜んですがりついた先が、清之助の膝の上であった。暖かく包み込んでくれるはずだった膝の上には、しかし遠目には見えなかった蜘蛛の糸が張っていた。柔らかそうでいながら決してお由布に自由を許さない。いつしかお由布の心の芯にまで、がんじがらめに絡みつき、息をするのも苦しくなっていた。

 あんなに楽しみにしていた二十六夜待に出かけることは叶わないまま、夏は終わった。 

 前日の夜から、お由布はひどい頭痛に悩まされて、食事どころか起き上がることすらできなかった。さすがに心配した清之助が、「大丈夫か。寿司を買ってきてやったぞ」と、帰りに屋台の寿司を買って帰ってきたまではいいが、そう言って座るなり、常に戻ってそれきり動かない。仕方なく、お由布が痛む頭を押さえながら起き上がり、常の通りに茶を入れた。

 

つづく