連載小説『お由布』 その十三

 

   十三

 

 気がつけば、布団に寝かされていた。

 起き上がろうとしたが、体が痺れたように動かない。霞む視界の中に、心配そうに覗き込む男の顔を認めた途端、お由布は思わず顔を背けた。そのことは、何よりお由布自身を驚かせた。自分の命を救ってくれたのは、ここにいる夫の清之助である。なのに……。

 命は、確かに命だけは助かった。

 しかし、弾け飛んで自分を解放するはずだった寂しさが、前にも増してお由布の心に重くのしかかっていた。

 夫は今も変わらずお由布を守ってくれている。夫とはそうしたものだと思ってきた。

 だが……。

 優しい頼りになる夫が、いつの頃からか疎ましく感じられるようになっていた。いつも守られていると感じることに、息の詰まる思いがするようになっていた。

 

「頼むから、おとなしくしていておくれ。ああ、それからあとでこれを。先ほど来ていただいた先生からだよ」

 そう言い置くと、清之助は逃げるように店へと出かけていった。枕元のお盆には土瓶と湯飲みが置かれていた。湯飲みに入った茶色い液体を口に含むと、苦い味がした。

 

 こんな姿を、あの世から見ている両親は、なんと思うだろう。情けなさで胸が塞がる。一体、自分はどうなってしまったのか。あるいは、これから先どうなっていくのか。今ここに生きている意味があるのか、ないのか。

 お由布は暗澹たる思いで、自らの心に問い掛けた。だが、いくら問い掛けても心は何も答えてくれない。お由布の出方を伺うように息を潜めて、ひっそりと静まり返ったままだった。

 昼過ぎに家主のおかみさんが、粥を作って持ってきてくれた。

 昼八ツ頃には棒手振りの女房が、団子を差し入れてくれた。すっかり近所でも噂になっているようだ。 

 

 作治が届けてくれる本にも手を付けないまま返すことが多くなった。それでも作治は笑顔と世間話を手土産に、定期的に来てくれる。

「こんなに寝込むってのは、頑張りすぎたお由布さんに、神様が与えて下すったお休みだ。そう思って、じっくり休むがいいさ」

 作治はあくまで素っ気なく言う。その素っ気なさが、ありがたかった。

 

 

連載小説『お由布』 その十二

    十二

 日増しに寒さも和らいで、辺りに梅の香りが漂う季節が、巡ってきた。

 それにしても、今日は朝から随分と湿気が多い。空はどんよりと重く垂れ下がり、今にも雨が降り出しそうでいて、未だ思い切りがつかないとみえる。生暖かい風が、ぐずぐずとまとわりついて、心地の悪いこと限りない。 こんな日は、いつにも増して頭の奥に鈍い痛みを感じる。

 夕方になって、ついに雨が降り出した。

「とうとう踏ん切りました」と言わんばかりの激しい降りで、家全体が濡れそぼっている。頭の痛みは更に増して、寄り合いで帰りが遅くなる清之助の帰りを待たずに床に入った。

 夜も更けてから、降りしきる雨の中を清之助がようやく家に帰り着いた。家の中に入った途端に口から漏らしたため息が、静まり返った家の空気を、痛々しげにそっと揺らした。

 翌朝には、あんなに激しく降り続いていた雨も、ようやく上がった。かといって、爽やかに晴れ渡るというわけでもない。地面にたっぷりと吸い込まれていた雨水が春の日差しにあぶり出され、ぬるぬると暖かく湿気の多い一日だった。

 朝起きた時からずっと、頭の中に幕でも張ったかのような、うすぼんやりとした気配が、お由布を捕らえて離さない。

 清之助はいつもと変わりなく、ひと言ふた言小言を言い置いて、店へと出かけていった。清之助とて、お由布のそんな不調に気がついていないわけではなかったが、心配する気持ちが、結局はいつもと変わらぬ小言になってしまうのだった。

 何をするわけでもなく、昼が過ぎ、夜を迎えていた。

 その日、お由布は一段と具合が悪かった。帰ってくれば気配でわかる。すぐに起きて世話をすればいいだろう。そう思って、早々に床に入った。

「いつ、帰ったのか」

 夜中にふと目を覚ましたお由布は、傍らで寝ている清之助に気がついて記憶を探った。それほど、深く寝入っていたとは思わずにいた。

 目の前には、寝間の暗い闇が果てしなく広がっている。

 喉の渇きを覚え、音もなく布団からするりと抜け出すと、けだるい体を引き摺るように土間へと降りる。かめのふたを開け、柄杓で水をすくう。そのまま口をつけて、ごくりと飲み干す。気配に目を向けると、障子が明るく照らされている。そっと開けて外を伺う。惹かれるように見上げれば、そこだけ切り取ったような月である。

「満月――」

 昼の間はどんよりと曇っていたはずが、大いなる天空に見事な満月が浮かんでいた。 その時--。

 目の端にきらりと光るものが映った。お由布の目はその怪しい光に惹きつけられて動かない。そっと、手を伸ばす。しまい忘れていた包丁の刃が指先に触れた。その柄を握りしめて持ち上げると、窓から差し込む月明かりに翳してみる。包丁の刃は、月の光を受けて鈍い光を放っていた。

「きれい」

 声に出してつぶやく。

「きれい、きれい、きれい」

 歌うように何度も声に出しながら、包丁を掲げてぐるぐると回る。

「きれい、きれい」

 自分の声に酔いながら、さらに回り続ける。

 やがて、回りの景色がぐらりと大きく傾いて、お由布はその場に座り込んだ。

 誘いかける鈍い光。応えるように触れる白い指先。少し力を入れれば、容赦なく切りつけるであろう刃の冷たさが、なんとも心地良い。

 お由布の頭の中で、何かがぷつんと音を立てて切れた。

「く、く、く」

 口元に笑みが浮かぶ。

「き・れ・い」

 包丁に語りかけると、お由布はおのれの胸に刃を向けた。

 お由布の心をがんじがらめに縛り付けていた途方もない寂しさが、今まさに弾け飛ぼうとしていた。

「お由布!」

 叫ぶ声が聞こえたかと思う間もなく、お由布は激しい力で突き飛ばされた。

 弾みで包丁が土間に転がり落ちる。

「あ」

 反射的に手を伸ばす。

「お由布、よせ、よさないか」

 後ろから強い力で羽交い絞めにされる。

「お由布、お由布」

 自分を呼ぶ声が、遠ざかっていき、やがて何も聞こえなくなった。

 

 

 

 

連載小説『お由布』 その十一

 

   十一

 

「この間のは、どうでした。ね、面白かったでしょう。今度はこれはどうかって、幸さんが」

 いつの間にか、作治を通して幸吉の勧める本を読んでは感じたことを作治に話すのが、お由布の唯一の楽しみとなっていた。

 作治から聞いたところによると、幸吉はもともとは近江の商家の奉公人だったそうだ。

「それがどこでどうなったんだか。今では、一人で江戸と上方を行ったり来たりの仲買人ですよ」

 そう言いながら小指を立てると、いたずらっぽく笑って見せた。

 ほかの者がやると下品に見える仕草も、作治がやるとどこか憎めないのだった。思わずお由布も小さく笑った。

「中にはあくどいことをやってる奴らもいるらしいけど、幸さんはそんなことはしない。評判はいいですよ」

「そう。そうでしょうね。なんかわかる気がするわ。ところで、幸吉さんて、おいくつくらいの方なのかしら」

 幸吉に勧められて読んだ何冊目かの本を作治に返しながら、お由布はさり気なく尋ねてみた。

「歳ですか。歳は……、確かもうじき三十じゃなかったけな。なんなら今度聞いておきましょうか」

「い、いえ、いいのよ。別にそんなこと、わざわざ聞いてもらわなくっても。話のついでに聞いてみただけだから。へえ、そう……。それじゃあ……、それじゃあ、きっと、おかみさんもお幸せでしょうね」

 なぜか胸のあたりが、きゅんとした。

「いや、それがまだ独り者で。あの通りの人柄だから、世話をする人も何人かいたようですけどね。子供の頃に、親でかなり苦労したようで。所帯を持つ気になんてなりゃしないって、いつか蕎麦屋で一杯やった時に、笑いながら言ってたっけ。でも、なんか寂しそうだったね。よっぽど辛い目にあったんでしょうかねぇ。俺なんか、もうこの頃じゃ、女なら何でもいいかって気になってるけどね。誰も世話なんてしてくれやしないし、女の方でも相手にしやしない……ったく、見る目のない女が多すぎるってもんだぜ」

 作治は一人でぶつぶつ言いながらも、楽しそうに帰っていった。角を曲がった、すぐそこの小間物屋の娘と好い仲なのを、お由布は知っていた。帰りに娘の所へ寄っていくつもりがあるからこそ、この家にも足繁くやってきてくれるのだ。

「おや、作治さん、これからお駒ちゃんの所へお出ましかい。よ、色男」

「てやんでぇ、そんなんじゃねぇよ」

「なに照れてんだい。いい年をして、可愛いとこあんじゃないのさ」

「うるせぇ、くそババア。本を借りる気がないなら、おとなしく家に引っ込んでいやがれ」

 外では、長屋のおかみさんと作治との軽妙なやり取りが、しばらく続いていた。

 

 辛いから外に助けを求める人間と、辛いからこそ何も求めなくなる人間がいるのだ。幸さんて人はきっと後者なのだ。わたしは……わたしは、どちらだろう。

 お由布は作治の置いていった本の表紙を、愛しげに心を込めてそっと撫でた。