連載小説『お由布』 その三

 三

 

 あれから七年。慣れた手つきで料理を盛り付け、足裁きも颯爽と盆を運ぶ様子も板に付いてきていた。お由布は十七歳になっていた。

「なにがあっても、ここで生きていく。ここしか、もう生きる場所はない」

 十の春に思い定めて、ここまで一生懸命に働いてきた。目的なければ夢もない。ただ生きるためだけに働いてきた。

 幸い日野屋の人々は、主夫婦の人柄そのままに、優しく穏やかな人達ばかりだったので、お由布にとっては、まさにここが新しい家、新しい家族そのものだった。

 

 冬の厳しい寒さも緩み始めた、ある日の午後。

 お由布は店の番頭さんに呼び止められた。だんな様がお呼びだから、奥の座敷に行くようにとのことだった。店の主から呼ばれることなど、ましてや奥の座敷に行くなど、それこそ滅多にあることではない。

「一体、何事だろう」

 自分でも気づかぬうちに、何か粗相でもしでかしたのだろうか。暇でも出されたら、どうしよう。そんなことにでもなったら、自分には帰る家もない。 

 胸のうちは不安で一杯になり、奥の座敷へ向かう廊下を歩く足は宙を行くようで、どこか頼りない。

「だんな様、お由布でございます。お呼びと伺って急ぎまいりました」

 障子の外から声をかける。緊張で背中が強張る。心なしか、声が震える。

「お入り」

 与平の低く落ち着いた声が聞こえた。

「失礼いたします」

 顔も上げられない。息も詰まる思いで障子を開ける。

「いいから、お入り」

 重々しさの中にも柔らかさを含んだ声で重ねて言われ、お由布は頭を下げたまま、部屋の中へとにじるように入った。

「かわいそうに。すっかり怖気づいてしまっているではありませんか。あなたが、あんまりいつも怖い顔ばかりしているからですよ」     

 お内儀さんの優しげな声に、お由布はようやく顔を上げた。

 視線の先に「日野屋」の主、与平と妻お初の笑顔があった。

「お由布、お前いくつになった」

「はい、十七でございます」

「うん、そうだったな。これまで本当によく働いてくれた。ありがとう」

「とんでもございません」

 お由布は、再び頭を下げた。体の強張りが一層強くなる。

「はっはっはっ。何もそんなに硬くなることはない。ほら、ちゃんと顔をお上げ。さあ」

 おずおずと顔を上げる。視線の先に、いつも遠くからではあるが、見慣れた主人の穏やかな笑顔があった。

「お由布、喜ぶといい。お前に縁談だ」

 思ってもみなかった話である。

 縁談は日本橋駿河町の呉服問屋三井屋からもたらされた。相手は、その三井屋の支配人になったばかり。ようやく住み込みから通いとなり、妻帯を許された三十二歳の男で、名は清之助という。

「なに、少し年は離れているが、早くにおとっつぁんを亡くしたおまえには、かえっていいだろう。なにより三十二歳で支配人になるとは、大変な出世だよ」

 与平の言葉にうなずいて、お初が明るい声で続けた。

「ほら、先だって呉服問屋の方々の集まりが、うちの店であったでしょう。あの時に先方さんがおまえを見染めたそうよ」

 おまえは果報者だと与平は言った。これは良縁だと、お初が微笑んだ。そうかもしれないと、お由布は思った。

 

 自分が嫁に行くなど考えたこともなかった。日野屋を家とも思い、そこで一生を終えるのだと勝手に決めていた。

「それが嫁入り? わたしを見染めたなんて」

 お由布は、自分の顔をまともに鏡で見たことなどない。たまに店に来た客から、器量よしだと言われたことはあるが、なにしろお酒も入っている席でのこと。客の戯言、軽口だと思っていた。店の者にも、きれいになってきたと言われたことがないでもないが、それもまた、みんなの優しさから出た言葉だと思っていた。それが見染められての嫁入りとは。夢ではなかろうか。

 

 話はとんとん拍子にまとまり、祝言は三月初旬の佳き日と決まった。

「桃始めて笑うといってね、桃の蕾がほこんで、花が咲き始めるころのことをさしているのよ。縁起がいいでしょう」

 お初が教えてくれた。

 

 

つづく

 

連載小説『お由布』 その二

 二

 

 夜は、まだ明けない。

 暁の空の向こうには、どんな明日が待っているのだろう。

 お由布は、「ほぅっ」と小さく息を吐いた。痛む手に目をやると、その小さな手は、冬場の水仕事のために真っ赤に腫れていた。泣きたい気持ちは、もちろんあるけれど、泣いてなんかいられない。お由布は、生きていかねばならない。

 父の買って帰る簪を楽しみに待っていたはずが、戻ってきたのは戸板に載せられた父の冷たい体だった。親子三人の楽しい生活はあっけない幕切れとなった。

 父の葬式が済んでから寝込んだ母は、二月になってようやく床上げすると、家主の紹介で不忍池東にある高岩寺門前の蕎麦屋に賄いに通うようになった。夜は夜で、近くの古着屋の仕立て仕事を引き受けていた。そうして、その少ない稼ぎの中からやりくりをして、お由布に手習いを続けさせた。少しでも良い奉公先に行けるようにとの配慮であった。

「一日も早く奉公に出て、安心させておくれ」

 母は、お由布の顔を見るたびに言った。

 熱い思いが天に通じたのか、十歳の春を迎えると、口を利いてくれる人があり、お由布は両国の料理茶屋「日野屋」に、住み込みの奉公に上がることとなった。

「日野屋」は、主夫婦の他には、豆腐作りの職人に住み込みと通いの女中を合わせても十名足らずの小さな店であった。しかし、看板料理の淡雪豆腐はもとより、座敷や庭の造作までも売り物にした、両国でも屈指の名店の一つである。

 また、亡くなった父が、その庭の手入れのために月に一度は通っていた店でもあった。主人の川口与平は父をよく見知っており、その縁あってのお由布の奉公であった。

 ようやく母の願いを叶えることができたと、十歳になったばかりのお由布は安堵の胸を撫で下ろした。が、お由布の奉公先が決まったことが、逆に母の気の緩みを誘ったのか、いよいよ三日後には奉公に上がるという、その明け方、まるで蝋燭の炎が消えるように、母は静かに息を引き取った。安らかな死に顔であった。

 日野屋からは日延べの提案もなされたが、母の葬儀が済んでしまえば、家の片付けなどに時はかからない。一人で長屋に置いておくわけにも、誰かが一時的にでも預かって離れがたくなっても具合が悪かろうということで、お由布は予定通りに日野屋に向かった。

「幼くして父を失い、この度は母を失い、悲しいことや辛いことも多かっただろう。これからは、わたしたちを親とも思って励んでおくれ」

 主の与平は、落ち着いた声で言った。

「困ったことがあったら、いつでも遠慮なく言ってね」

 おかみさんが優しく言葉を添えた。

「ありがとうございます。よろしくお願い申し上げます」

 お由布は、畳に額をこすりつけるようにお辞儀をした。零れ落ちた涙が、畳を濡らした。

「なにがあっても、ここで生きていく。ここしか、もう生きる場所はない」

 十歳のお由布は、十歳なりの決意を固めたのだった。

 

 豆腐料理を看板にしている日野屋の朝は早い。まだ夜も明けないうちからの水汲みに始まり雑巾がけ、洗いもの、そして、父も愛した自慢の庭の掃き掃除……。お由布の小さな白い手は、朝早くから始まる水仕事のために、あっという間に真っ赤にひび割れた。

「お由布」

 店の奥から、呼ぶ声が響く。

「はーい、ただいま」

 大きな声で返事を返す。洗い終えたばかりの野菜をかごに入れ、体全体で抱えるように持つと、急ぎ店の中に戻っていく。ここでは、涙を流す暇もない。

 働いても働いても、仕事は次から次へとやってくる。毎晩仕事を終えて倒れ込むように布団に入ると、あかぎれで痛む手をさすっているうちに、あっという間に深い眠りに落ちていくのだった。

 

   つづく

 

 

⇒連載小説『お由布』

連載小説『お由布』 その一

   一.

 

 下谷池之端。辺りには寺院が数多くあり、その作庭や手入れをする庭師もまた、多数住んでいた。

 お由布の父、由吉もそんな庭師の一人であった。庭師としての腕も良く、仕事も早い由吉は、近隣だけでなく浅草の寺院や両国の料理茶屋にまで、仕事先は広がっていた。両国あたりの料理茶屋では、肝心の料理はもとより座敷や庭の造作までも売り物にしているところが多くあり、そのうちの何件かが由吉の得意先となっていたからである。

 十二月の声を聞くと、俄然仕事が忙しくなる。どこも綺麗に手入れされた庭で正月を迎えたいと望むからだ。冬の日は短い。いくら仕事が早いとはいえ、それなりに広い庭であり、注文もうるさい。大切な得意先の仕事に手抜きは禁物とばかり精を出していると、あっという間に日が暮れる。勢い仕事に出かける時間が日に日に早くなる。冬の厳しい冷え込みの中、毎日それこそ休む間もなく由吉は庭の手入れに回って歩いた。

 

 ようやく六つになった一人娘のお由布が、最近とみに愛らしさを増してきた。晴れ着を新調してやるのは無理にしても、何か一つくらい新しいものを身に付けて、新年を迎えさせてやりたいと思う。そのために少々の無理を重ねるくらい、由吉にとってはなんでもないことだった。

 その日、お由布はいつもよりずっと早く目が覚めた

「おとっつぁん」

 寝ぼけ眼で声を掛けると、今まさに仕事に出かけようとしていた父が嬉しそうに振り返った。

「おう、お由布、起きたか。仕事納めの日にちゃんと早起きして見送ってくれるなんざ、おめえは優しいな。今日は浅草まで行くから、土産に赤い玉簪を買ってきてやるぞ。正月に髪に飾るといいや」

 簪と聞いて思わずお由布は、父の側に走り寄った。

「赤い玉簪? わあ、うれしい。きっと、きっとだよ。ねえ、きっとだよ。約束だよ」

 いつまでも父にまとわりついて離れないお由布を、

「お由布、おとっつぁん仕事に行けないだろ。ほら、こっちにおいで」

と、母が笑いながら引き寄せた。

「ああ、きっと。約束だ。楽しみに待ってるんだぜ。じゃあ、行ってくるからな」

 由吉がお由布の頭をぽんぽんと軽く叩きながら、優しく笑った。そうして、道具箱を右の肩にひょいと担ぐと「じゃあな」と言って、出かけていった。

 母と見送った、父の笑顔と大きな背中。

 十二月二十五日の仕事納めの朝だった。今日は久しぶりに暖かくなりそうな、そんな一日の始まりだった。

 母は、先日古着屋で買ってきた着物を丁寧にときほぐして、洗い張りにした。お由布の正月用の晴れ着に仕立て直すつもりなのだ。うまくいけば今日のうちに乾くだろう。その間にと、母は父の仕事着の繕いを始めた。お由布は側で手習いのおさらいをしていた。正月五日の書初めで、また先生に褒めてもらいたかった。

「ぁ」

 小さな声に目を上げると、母が指を口にくわえていた。針を刺したらしい。裁縫の上手な母にしては珍しいことだった。

「おー、嫌だ嫌だ。折角の着物が汚れちまう」

 母が、流しの方へ行こうとしたその時、突然叩きつけるように扉が開いて、一人の男が転がり込んできた。男は、向かいに住んでいる大工見習いの源七だった。

「た、大変だ」

 息も切れ切れの源七の顔が涙でくしゃくしゃに歪んでいる。

「い、いきなり飛び込んできて、何だって言うのさ」

 ただならぬ源七の様子に、母の顔から血の気が引いていた。

「由吉さんが、由吉さんが……」

 後は声にならない。その場にしゃがみこんで泣くばかり。

「え、なんだって、うちの人がどうしたっていうんだい」

 母が聞きただそうと源七の方へ行きかけると、表から大勢の乱れた足音が聞こえてきた。足音は近づいて来て、そしてお由布の家の前で止まった。憔悴しきった大工の親方と、その後ろには数人の手によって担がれた戸板が見えた。

 その日、由吉は浅草の寺で仕事をしていた。源七もまた、親方とともに同じ寺に修繕の仕事に来ていた。お互いに「朝早くから大変だね」と笑顔で挨拶を交わし、由吉は道具箱の前にしゃがみこんで必要な道具を取り出し立ち上がろうとした刹那、突然うめき声をあげて胸のあたりを押さえたかと思うと、その場に突っ伏した。驚いて駆け寄ると、小さく体が震え、そして動かなくなったのだという。

「帰りに、お由布ちゃんに赤い玉簪を買って帰るんだって、嬉しそうに話していたんだよう」

 言うなり、また源七は泣き崩れた。

「そんな、ばかな。うちの人に限ってそんな、ばかな、ばかな…」

 母は、ずっと同じ言葉を繰り返していた。

「おとっつぁん、どうしたんだい」

 布団に横たわる父の顔には、白い布がかけられている。声を掛けてみても、返事はない。

「おとっつぁん、簪は。赤い玉簪、買ってきてくれたかい。どこにあるんだい。お由布の簪」

 父の身体に触れると、その冷たさに驚き傍らの母にしがみつく。

「お由布。おとっつぁんは、もう簪を買っては来れないんだよ。いいかい、分かったかい。しっかりおし」

 母が、お由布を強く抱きしめた。

 年末の押し詰まった頃だというのに、長屋の住人は嫌な顔一つせずに、葬式を手伝ってくれた。

 大晦日から降り出した雪は、元日には辺り一面を白く埋めていた。それでもなお、雪は音もなく、静かに降り続けた。

 お由布の晴れ着は、ついに仕上げられることはなかった。そして、赤い玉簪もまた、お由布の髪を飾ることはなかった。

 家の前の軒下にうずくまって、お由布は白い息を吐いた。外の雪景色は、確かにお由布を凍えさせた。しかし、家の中はそれよりもっと冷たい空気に満たされていた。葬式が済んでから寝込んだ母は、今もまだ布団の中にいた。

 

 

  つづく