7.生まれて初めての夢のお告げ

父が亡くなって10日後が私立の、1か月後が公立高校の入試日でした。

 

病院に泊まり込んでから葬式が終わるまで、約1週間学校を休んでいました。

わたしは、不安でした。

それでも、もし公立に落ちて私立に行くことになったら、一生懸命勉強して特待生になって、学費を免除してもらとうと本気で考えていました。

 

***

 

まさに今日が私立高校の入試日、という日の朝方のお話です。

 

わたしは夢を見ました。

 

亡くなったはずの父が、わたしに黄色いワンピースを買ってくれるという夢です。

 

わたしは、目が覚めた瞬間、

 

受かった

 

と思いました。

 

父がワンピースを買ってくれたからではありません。

特に黄色いワンピースが好きだったわけでもありません。

でも、夢から目覚めた瞬間、そう思ったのです。

 

これは、その後、夢から様々なメッセージを受け取るようになってから分かったことですが、夢からのメッセージというのは、理屈ではありません。起きた瞬間に、答が心の中にあります。

それが、夢からのメッセージです。

夢の意味をあれこれ考えなければならないのは、まずメッセージではありません。

 

話を元に戻しますね。

目覚めた瞬間に受かったと思ったわたしは、母に言いました。

 

わたし、受かったから。

 

母は、びっくりしたように、こう言いました。

 

何言ってるの?  これから試験を受けるのに…

 

同じ学校を受ける仲間と待ち合わせて会場に向かう時にも、わたしは皆に、

 

わたし、受かったから

 

と言い続けていました。

我に返ったのは、試験が終わって帰る時です。

 

どうしよう~  皆に「受かる、受かる」って言ってしまって。もし、落ちたら、どうしよう~

 

試験の結果は『合格』でした。

それも、本当に特待生になれるほどの高順位で。

通常、入試の結果の詳しいことは教えてもらえないことになっているらしいのですが、あまりの高順位に先生も驚いたようで、こっそり教えてくれました。

 

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6.父、逝く・・・その3

父が亡くなったのは、年が明けての2月6日です。

あと2か月といわれていたのが、4ヶ月持ちました。

いよいよ危ないということで、数日前から家族全員が病院に泊まり込んでいました。

ある日、病室でみんなで話をしていた時、母が、

 

あ、点滴が減ってない!

 

小さく叫ぶように言いました。

 

すぐに先生を呼びましたが、すでに息を引きとった後でした。

父は、家族の会話を聞きながら、一人静かに旅立ったのでした。

45歳でした。

 

父の葬儀は社葬となりました。

会社の人たちが大勢来て、なにからなにまでやってくれました。

会場となったお寺の前には沢山の花輪が並び、会社の上司や同僚や部下の方たちが、やってきては声をあげて泣きました。

わたしは、男の人が声をあげて泣く姿を生まれて初めて見ました。

 

 

葬式というのは、こういうものなのか

と、どこか他人事のように思っている自分がいました。

中学校のクラスメイトも先生と一緒に葬式に来てくれましたが、わたしは、

 

まるで見せ物だな

 

と思いました。

 

そういえば、お通夜の前の晩だっでしょうか。

お寺で、みんな一緒に寝ました。

それが、とても嬉しかったのを覚えています。

父は遺体となってはいましたが、久しぶりに家族全員が揃ってひとつ屋根の下にいると思うと、わたしは嬉しくてたまらなかったのです。

 

不思議な感情に取りつかれた、不思議な時間を生きていたようです。

 

その後、何年も経ってから、母たちに、

 

あんたは、一番可愛がられて、贅沢に育てられた。

 

と、言われたことが何度かあります。

 

確かに、末っ子のわたしは、父がある程度出世してから生まれたので、経済的に恵まれていたし、末っ子ということでみんなから可愛がられたでしょう。

 

でも、

 

でも、

 

たった15年だよ。

 

わたしは、心の中でそっとつぶやきます。

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***

 

やがて、自分が45歳になったとき、思わずわたしは父に謝りました。

 

お父さん、ごめんなさい!

わたし、45歳になっても、まだこんなだよ!

 

と同時に、こうも思いました。

 

子どもの頃のわたしの目に映っていた父は、いつも堂々として自信に溢れていたけれど、もしかしたら、やっぱり悩んだり迷ったり、不安になったり、揺れていたときもあったかもしれないと。

 

そして、46歳の誕生日を迎えた時は、とうとう父より長生きをしてしまったのだと、なんとも言えない、しみじみとした気持ちになりました。

 

それから、さらに10年の歳を重ねました。

 

この10年の中での変化は、目まぐるしいものがあります。

 

それは、また、これから少しずつお話ししていきたいと思います。

 

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5.父、逝く ・・・ その2

モノクロの花

 

 

 

病院の先生と相談をして、母の出した結論は、


父に告知しない

癌センターには入れない

会社の持っている病院で、今でいうターミナルケア(終末期医療、終末期看護)を行う


というものでした。

この是非を、今ここで問う気はありません。

そんなこと、意味のないことです。


***


父が会社の病院に入院をしてから、母が月曜日から金曜日まで、病院に泊まり込んで看護。土曜日と日曜日は、母を休ませるために姉とわたしが交替で病室に。という生活になりました。

母が病院に泊まり込んでいる間、家のことは姉とやりました。

朝は、自分でお弁当を作って中学に通い、帰ってくると、姉と一緒に夕飯を作って食べました。

 

そして、週末は姉と交代で病室で過ごしました。

 

こんなことを言うと、人はなんと思うでしょうか?

 

わたしは、病院に行くのが嫌でたまりませんでした。

余命幾ばくもないと分かっている父と、病室で二人きりになるのが嫌でたまりませんでした。

父のことを嫌いだったわけではありません。

でも、それまで仕事人間でまともに会話したこともないのに、突然病室で二人きりになっても、どうしていいのか分からなかったのです。

わたしは、受験生でした。

私立に行かせるお金はないから公立に絶対に受かりなさい。と、母に言い渡された受験生でした。

けれど、病室で勉強する気にはなれなかったわたしは、日がな一日、本を読んだり、カセットを聞きながら過ごしました。

 

今ごろ、みんながんばって勉強しているんだろうな。

 

そう思うと焦る気持ちが湧いてきます。病室にいるのがもったいないとさえ思いました。

 

また、もう一つ、病室に居たくない理由がありました。

それは、わたしが行くと、父がとても嬉しそうに笑顔を見せることでした。

 

わたしの父に対する印象をひとことで言うなら、

『威厳の塊』

仕事人間の父の笑顔など、それまで一度も見たことがありません。

それが、嬉しそうな笑顔を見せながら、痛む体を一生懸命わたしの方に向けるのです。

いたたまれませんでした。そんな父の姿は見たくありませんでした。いつでも、堂々と自信に満ち溢れた父しか見たくなかったのです。そんな弱った姿の父を受け止めるだけの器を、15歳のわたしは、まだ持ち合わせていませんでした。

 

もし、わたしが女優で、今ここで泣かなければならないとしたら、即座にわたしはこの時の様子を思い浮かべるでしょう。そうすれば、わたしは即座に涙をこぼすことができます。そして、それは、わたしの中で深い後悔として、今も心に残っています。

 

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