10. 素直…なのかなぁ~ ?

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小学生の時にオリンピックで見た一人の体操選手。

一瞬にして、わたしは目も心も奪われました。

彼女の名は、ベラ・チャスラフスカ。

当時のチェコスロバキアの人で、『オリンピックの名花』『体操の名花』と称えられた名選手です。

その美しかったこと…

 

受けた衝撃には、計り知れないものがありました。

それまでスポーツといえば、息を切らして汗かいて、というイメージしかありませんでした。

 ところが、テレビの中の彼女は、オリオンピックという国の名誉のかかる競技にもかかわらず、優美に舞っていたのです。

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 世の中に、こんなに美しいスポーツがあったなんて・・・

 

そのころバレーを習っていたわたしは、何か通じるものを感じたのでしょう。

中学校に行ったら、絶対に体操部に入るんだ!!

小学生のわたしは、テレビの前で固く決意したのでした。

 

 

さて、中学校で念願の体操部に入ったのは入ったのですが、そこでやらされた体操は、チャスラフスカの演技とは程遠いものでした。

 

中学の体操部は団体だったのですね。

 

日体大とかの体操選手が、何人か揃って跳んだり跳ねたりしているのを見たことはありませんか?

 

これは、わたしの目指したものじゃない!

 

落胆したわたしは、高校の体操部に夢を託しました。

 

*****

 

念願叶って高校の体操部に入り、初めて跳馬の練習をすることになったときのお話です。

 

まずは、思い切り踏み切る練習です。

 

勢いよく走り、踏み切り板を思い切り蹴ると同時に両手を大きく上に伸ばして飛び上がる。

それを、跳馬の前に立っている先輩が受け止める。

 

これを何度も繰り返したあと、先輩が言いました。

 

じゃあ、本番。

一人で跳ぶのよ。

練習と同じように跳べばいいからね。

 

はい!

 

わたしは、元気よく返事をしました。

 

練習と同じように跳べばいい。

 

頭の中でくり返しながら、まっしぐらに跳馬へと向かい走り、

踏み切り板を勢いよく蹴って両手を上に・・・

 

跳びました!

跳びました!

跳んだのです!

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次の瞬間、わたしは跳馬の向こう側に敷いてあるマットレスめがけて落下していました。

 

なぜ???

 

わたしの頭のなかには「?」がいくつも点滅していました。

慌ててそばに駆け寄ってきた先輩が言いました。

 

いくら、練習と同じようにって言ったって、跳馬には手をつかなきゃ・・・

 

あっ

 

そうか

 

手・・・か

 

 わたしは練習の時そのままに、勢いよく踏み切ったあと、両手を上に上げたままだったんですね。

そしてそのまま、弧を描くように跳馬を飛び越えて向こう側に落下したのです。

 

でもさぁ、「練習と同じように跳べばいい」って、言ったじゃ~ん

 

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9.夢のお告げは百発百中!

父が亡くなったのが、2月6日。

10日後の2月16日が、私立高校の入試でした。

その日の朝、不思議な夢を見て、起きるなり「受かった、受かった」と言いふらした私でした。

 

   前回のお話は、こちら ◎◎◎

 

そして、1か月後の3月6日が公立高校の入試日。

その日の朝は、特に夢も見ず、

 

あの時は、お父さんが死んだばかりだったから、特別だったんだな

 

なんて思いつつ、無事試験を終えたのでした。

 

サクラ

 

その頃の愛知県では、公立高校の入試は学校群制でした。

わたしも、〇群A校B校という学校群を受けました。

A校は、亡き父の母校。

B校は、名古屋市の外れにある可もなく不可もなくといった感じの高校です。

母には、3人の子供のうち、一人くらいはA校にとの思いがあったようです。

けれど、A校は、昔、愛知一中と言われていた、県下でもトップクラスの進学校です。

もし、そんなところに振り分けられたりしたら、わたしは落ちこぼれになりかねません。

母の思いとは裏腹に、わたしはB校に振り分けられ、そこそこの成績でノンビリとした高校生活を送りたいと願っていました。

 

さて、合格発表の日の朝、またまた夢を見ました。

それは、B校の方の掲示板にわたしの受験番号が載っているというものでした。

わたしは起きるなり、母に言いました。

 

わたし、B校だから

 

何言ってるの。これから見に行くんでしょ。

 

母が呆れたように答えます。

 

それから、2人で一緒に合格発表を見に行きました。

母は、いそいそとA校の合格者が貼り出されている掲示板の方へ。

わたしは、当たり前のようにB校の方へ。

 

もちろん、わたしの受験番号は、B校の方の掲示板にありました。

 

その後も、大学入試から就職試験の結果まで、すべて事前に夢で結果がわかりました。

まさに、百発百中です!

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 この話をすると、回りの人からは、よく「前もって分かるなんて、いいなぁ」と言われます。

でも、落ちるのも分かってしまうってのは、結構辛いものがありますよ。

 

なにはともあれ、わたしは無事希望する高校へと進学が決まり、ノンビリとした高校生活を送ることとなったのでした。

 

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8.泣けなかった・・・

おまえ、泣かなかったな

 

中学校の卒業式で、担任の先生から言われた言葉です。

 

そうです。

わたしは、卒業式で泣きませんでした。

 

卒業式だけではなく、

 

父が癌で余命わずかと聞いた時も

父が病室で息を引き取った時も

お葬式の時も

 

わたしは、一度も泣きませんでした。

 

わたしは、なんて薄情な娘なんだろう。

泣かない自分を、冷ややかに見ている別の自分がいました。

 

でも、わたしは、泣かなかったのではありません。

泣けなかったのです。

泣くだけの、心の余裕がありませんでした。

次から次へと課題がやってきて、それをこなすのに必死だったわたしに、泣いている暇はありませんでした。

受け止めるのが怖かったのでもありました。

あまりに大きすぎて、受け止めたら、自分がつぶれてしまいそうで、逃げてもいたのです。

 

実は、わたしは仲のいいクラスメートにも、父のことは一言も話しませんでした。

だって、学校に行って、友人に「お父さんの具合は、どう?」なんて、聞かれたら、その場で崩れてしまいそうだったもの。

だから、わたしは学校にいる間だけは、心の重荷を忘れることができました。

そうして、なんとか自分を保っていられたのです。

 

 

今、わたしは、こう思います。

 

泣いている暇がなかったからこそ、今の自分があるのだと。

 

もし泣いて、悲しみにすっぽりとはまってしまっていたなら、わたしの人生はまた違ったものになっていたでしょう。

 

わたしは、まもなく57歳になります。

そうして、今、自分の人生をふりかえって見た時に、

 

あの時、ああすれば良かったか?

こうすれば良かったか?

 

と、考えてみたりもします。

 

でも、わたしは、やっぱりこの生き方しかできなかったと思うのです。

 

ものすごく苦しかったり、辛かったり、悔しかったり、そして、悲しかったり・・・

その人生は、波乱に満ちたものでした。

 

でも、それでも、やっぱり、わたしは、この人生が好きなのです。

そんな生き方しかできなかった自分が大好きなのです。

 

そんな人生しか生きられなかった、そんな自分が、大好きだ!

 

だって、これまでの様々な出来事に磨いていただいたお陰で、今わたしは、申し分のない人生を手に入れて、申し分のない日々を送っていられるのですから。

 

ところで、わたしが、父の死にまつわる様々なことに思いを馳せて、しみじみと泣いたのは、26歳で最初の結婚をして、ほんのひととき落ち着いた気持ちになった時でした。

その時初めて、思いきり悲しみに身を委ねて泣きました。

 

けれど、その結婚も、わたしにとっては、決して安住の地とはならなかったのです。

 

それは、まだずっと後のお話・・・

 

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