体と言葉

最近、『からだことば』という面白い本を読みました。

その中に、こんな意味のことが書いてありました。

 

 

* * * * *

 

からだは医学や生物学だけの対象ではありません。人のからだには遠い歴史や深い文化がひそんでいます。

 

かつて、怒りを表現する言葉としては、

 

頭にくる

 

とか

 

腹がたつ

 

といった表現を使っていました。

 

けれど、今の若者は

 

ムカつく

 

という表現を使います。

 

ムカついて、そしてキレるのです。

 

つまり、かつての怒りを表す言葉には「頭」や「腹」といったからだの部位の名称が含まれていたのです。

それが、いまでは「ムカつく」。

どこにも、からだの部位を表す名称が含まれていません。

 

かつて、わたしたちは怒りを感じると、それを体でいったん引き取って、

そして「頭にくる」とか「腹が立つ」と表現しました。

 

今は、感情を体で引き受けることなく外に出す。

 

だから、ムカついて、キレるのです。

 

* * * * *

 

だいたい、こんなような意味のことが書かれていて、わたしはなるほどと感心したのでした。

 

 

「ムカつく」というのも、元々は、ものすごい怒りのために「胸がむかついた」ような感じになったのが、

胸の部分が消えてしまって「ムカつく」になったのだろうとは推測できます。

 

 

そもそも言葉というのは、周りの環境に対して感じたことを伝えるために生まれてきたものです。

つまり、私たち一人ひとりの内側から生じたものを外に出すためのもの。

だから、体とも密接に結びついているはずなんです。

*ここでいう体というのは、単なる肉体的な意味ではありません。

 

ところが、現代は、体と言葉が乖離してしまっている。

それは、感じることからも乖離してしまっているということなのかもしれません。

体の内側から生じたものを、きちんと感じることなく、体で引き受けることもなく、瞬間的に外に放り出す。

それが「ムカつく」。

瞬間的に放り出すから、キレてもしまうのでしょう。

 

わたしたちは人間で、人間は心と体の両方のバランスが取れてこそ、

その足でその人生を生きていくことができるのです。

 

心からも体からも目を背けたままで、人生は決して微笑んではくれない。

わたしは、そう思います。

 

 

確かな人間関係

先日、紅子さんのセラピストサポート卒業ランチ会がありました。

セラピストサポートについては、紅子さんのブログを見ていただくとして…

 

⇒紅子さんのブログ

 

 

午前中はカフェで、今年前半の振り返りから後半へ向けての思いや考えや互いにシェアしたのですが、

一人が話すと他のメンバーが、自分なりの思いや考えを口々に発する。

 

そこに宿る真剣さや優しさが心に染みます。

いいメンバーに恵まれたと、しみじみ感じる瞬間でした。

 

 

そして午後は、場所を変えてのランチタイム。

女子会よろしく、あれこれとお互いに聞きあったり、話し合ったり…

 

 

 

一日置いて今度は、塩ねえが主宰する氣学の学習メンバーが集まっての暑気払い。

⇒塩ねえのブログ

 

これまで興味なあっても、まともに訪れることのなかった北千住。

商店街を抜けた先にある大衆居酒屋が宴会場?です。

 

こちらの様子もまた、参加者である香緒利さんのブログを参照していただくとして…

 

⇒香緒利さんのブログ

 

 

 

 

ん?

 

人のブログを読めとは、手抜き感ハンパない?

 

 

いえいえ、今日わたしが書きたいのは、みんなで集まって楽しかったというお話ではないのです。

今日書きたいのは、そこに集まったメンバーのことなのです。

 

 

 

わたしは子どもの頃から人づきあいが苦手でした。

たぶん、人との距離の取り方が下手だったのでしょう。

 

はた目には明るくて誰とでも仲良くできる子どもに見えていたかもしれません。

けれど、心の中では結構葛藤がありました。

そんなわけでいつしか、広くて浅い付き合いより、狭くて深い付き合いを好むようになりました。

 

また、父が亡くなったり、結婚したり、離婚したり、失業したり、再就職したりで

引っ越しをするたびに周りの人間関係がガラリと変わり…

新たな人間関係を作ることも、そんな性格上面倒くさくもありました。

 

 

なのに・・・

 

 

いったいいつの間にわたしの周りには、こんなにも暖かくて豊かな人間関係の輪ができていたのでしょう?

 

暑気払いを終えて帰る電車の中で、ふとそんなことに氣づかされ、

一人涙がこぼれるのを抑えることができませんでした。

 

わたしにも、こんな仲間ができるんだ。

 

 

 

人間関係というのは不思議なものですね。

作ろうと思って作ってもうまくいくとは限りません。

意図的に作った人間関係は、意外なもろさをはらんでいます。

でも、自分を見せて、相手を見せられていく中で、いつしか分かり合える者同士、

居心地のいい関係性ができている。

それは決して、頻度や密着度の濃さの問題ではありません。

とても緩やかだけども、底辺に信頼という確かな流れがある。

自分が自分らしくいられて、それを当たり前のこととして受け入れ・受け入れられる。

 

わたしは生きてきて良かったと思います。

わたしは、わたしであって良かったと思います。

このわたしが手にした人間関係だからこそ、わたしにとって居心地がいいのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

人生を引き受ける

過日、離婚を思いとどまる理由の一つとして、「子どものため」というのがあると書きました。

 

⇒本気で生きる

 

子どものいないわたしが、子どもがいる人の離婚について語るのはいかがなものかと思う気持ちもありますが、

勇気を出して書いてみたいと思います。

 

これは実際にわたしの身近で起きた本当の出来事です。

 

 

わたしが離婚を決めるより数年前に、そのころ親しくしていた友人が、

幼子二人を連れて家を出るということがありました。

彼女の決意を聞いて、その頃はまだ『離婚』の二文字が頭の中になかったわたしですが、

自分にできることは何でもして、彼女の決意を応援しようと思いました。

 

けれど結局、彼女は離婚はせずに家に戻ることにしました。

 

子どものため

 

というのが、そのとき彼女が言った、元の鞘に収まる理由でした。

 

離婚を決める理由も、思いとどまる理由も、人それぞれ。

そのことに何も言うつもりはありません。

いつだって、その人の人生の主役は、その人自身です。

 

 

けれど、彼女が続けて言った言葉に、わたしは愕然としました。

 

 

あとは、向こう(夫)が早く死ぬのを待つだけだ

 

 

この言葉は、後々わたしが離婚を決めるときにも大きな意味を持った言葉です。

 

⇒連載プロフィール『25.離婚の話』

 

 

数年前、彼女も含め親しくしていたメンバーで集まる機会がありました。

その時に彼女本人から聞いた話です。

 

現在、彼女のご主人は心を病んで、数種類の薬をビールで流し飲む生活だとか。

夫婦の間に会話はなく、今回のように彼女が家を空けるときも冷蔵庫に伝言メモを貼ってくるだけだそうです。

 

 

これが、かつて彼女の望んだ生活・人生だったのでしょうか。

 

 

確かに、向こう(夫)は死にました。

ただ死んだのは体ではなく、心の方でした。

 

 

子どもがいれば離婚を躊躇するのは、母親として当然の気持ちでしょう。

子どものために離婚を思いとどまるという選択も、もちろんあるでしょう。

 

けれど、彼女は「子どものため」と言いながら、彼らの父親である夫の死を望んだのです。

 

 

先ほども書きましたように、いつだってその人の人生の主役は、その人自身です。

 

だから一番大切なのは、自分がどうしたいかです。

自分が笑顔で過ごすためには、どういう状態が最も望ましいのか。

 

そして、それでもし離婚を決めたのなら、子どもに対しても堂々と胸を張って、

そういう選択をした自分の生きざまを見せればいいのではないでしょうか。

それしかありません。

 

自分の人生に責任を持つとは、そういうことです。

自分の人生に起きたこと、起こしたことを、引き受けて生きていく。

人生って、きっとそういうものなんだと思います。