苦しみの渦中にいるときは

わたしは、おせっかいです。

悩んでいる人や、苦しんでいる人を見ると、励ましたり、慰めたり、なにかアドバイスをしたくなってしまうのです。

でも、以前、紅子さんのセッションを受けたときに、こう言われました。

 

     紅子さんのセッションについては、こちらをご覧ください。

 

このセッション、メインは自分を守ってくれている存在(それを『チーム』と言い、わたしの場合は『チームゆみこ』です)と仲良くなって、いつでもアドバイスを受けられるようになるという楽しいセッションです。

紅子さん自体が楽しい人だから、余計に楽しいんです。

それで、そのときに言われたんです。

 

ゆみこさんは光の存在だから。

何にでも光を当てようとしてしまう。

でも、今はまだ日陰にいたい人もいる。

そのことを忘れないで。

それから、光って真っ直ぐ進むでしょ。

ゆみこさんも、そう。

真っ直ぐ進んでばかりでは、ダメなときもある。

 

結構、心に刺さりました。

思い当たるところがあったから。

だって、わたしおせっかいだから・・・

 

日陰にいるより、光の当たるところにいた方がいいじゃん、楽しいじゃ~ん

 

って、素直に単純に信じている能天気なところがあるんです。

 だけど、

 

いつかは、光の元に出ていきたいけど、今しばらくは日陰にいさせて欲しい

 

って思っている人も、確かにいる。

そして、真っ直ぐ過ぎて、ぶち当たってポキッってなったことも、また確かにある。

 

そうだよね。

気をつけないとね。

 

気づかせてくれて、ありがとう。紅子さん。

 

     わたしのセッションの様子はこちらをご覧ください。

 

でもね、でもさ、ね、ね、ね・・・

 

わたしは、来月57歳になります。

60年近く生きてきて、本当にこれといった悩みもなく、平和に暮らしていたなと思うのは、生まれてから父が癌と分かるまでの15年弱と、49歳で今の夫と再婚してから今日までの約9年。

なんと、60年のうちのたった24年!!

今さらながら、ちょっと驚きました。

 

      わたしのこれまでの人生、連載中です!

 

でも、今の平和は死ぬまで続くからね♡

そんな人生経験を踏まえて言えるのは、

 

今、苦しみの渦中にいるとしても、いつか必ず「あんなときもあったね」って、笑える日が来る

 

ということ。

ただし、笑える日が来てほしいと願えばの話だけど。

 

あんなに苦しかった出来事を、笑い話なんかに変えてたまるか

 

と思っていたら別の話。

でも、来るんだよ。笑える日が。

 

これもまた、よく人に言うことですが・・・

わたし、今の夫と再婚したとき、夫にこう言ったんです。

 

わたしたちは苦労の前払いをしたから、これから先は幸せしか来ないよ

 

そんな風に考える方が、楽しくないですか?

そんな風に信じる方が、楽しくないですか?

そんな風に生きる方が、楽しくないですか?

 

どう考えようと、何を信じようと、どこに向かって生きようと、それは本人自由。

でも、どうせなら、少しでも楽しいほうを選びましょうよ!

先人たちの苦労の跡

地方に旅行に行った際、中途半端に時間が余った時など、わたしは地元の文学館に行きます。

そうした所には、たいてい地元出身の作家の生原稿が展示されています。

 

そして、それらを見ると、わたしから見たら「この人は天才だ!」と思える作家であっても赤だらけ、つまり、いっぱい推敲していることがよく分かります。

そんな推敲の跡が残っている原稿を見ると、なんかジワーっと感動します。

 

***

 

昨今は、わたしもそうですが、みんなパソコンで書いて直すので、原稿を直した苦労の跡を見ることができません。

 

そもそも生原稿の展示なんて、できないし・・・

 

それって、もったいないなぁ~と思います。

 

誰のどんな原稿であっても、それを書こうと思った経緯や思いがあり、それを形にするための涙ぐましい努力があります。

 

文学館の生原稿の展示は、それを目の当たりにする、いい機会なんですけどね。

 

ふと思いついて、ひょいと書いて、はい完成! なんて、どんな世界でもまずあり得ない。

 

ふと思いついて、ひょいと書いて、そして完成させるまでの間には、推敲という地味だけど、なくてはならない作業があるのです。

 

その作業は、時に苦しいけれど、新たな創造を生み出す喜びに満ちています。

 

人生の価値

わたしは、中学3年生の時に、父を急な病で亡くしました。      連載中のプロフィールはこちら※※※

 

そして、その時に決めたことがあります。

それは、

 

命ある限りは、何があっても生きる。

 

ということ。

病気で、あるいは事故で、死にたくなくても死ななければならない人もいるのです。

だったら、生きてる限りは生きよう。

 

そう決めました。

 

もうひとつは、

 

あの時、お父さんが死んでしまったから、こんなふうになっちやったんだ!

という人生ではなく、

あの時、ああいう経験をしたおかげで今がある。

と、思える生き方をしよう。

ということです。

 

どちらも、理屈ではありません。

ふいに、そう思い決めたのです。

 

それが、“ 気づき ” というものなのでしょう。

 

その後も、数々の出来事がわたしの人生に起きました。

 

けれど、どんなに絶望的になったときでも、このふたつの考え方が、わたしを支えてくれました。

 

***

 

人生には、色々なことが起こります。

けれど、出来事は、所詮出来事。

単なる事実に過ぎません。

 

辛かったり悲しかったりしたとしても、それがイコール “ 悪いこと ” にはなりません。

ある出来事が自分の身に起きた時、それを踏まえてどう生きるかは、本人の自由です。

起こる出来事の選択権はなくても、生き方の選択権は、この手の内にあります。

 

父が亡くなった時、わたしは、神様から「この人生を生(行)きなさい」と言われたのでした。

 

けれど、その指し示された道をどう進むかは、わたしの自由。

 

道端の花を愛でながら行くもよし。

バイクに乗って飛ばすもよし。

ヒョコヒョコと横道へ逸れるのも、また有りです。

 

***

 

辛かったり悲しかったりした出来事であっても、それを栄養にできれは、それらは、結果として、自分にとって良い出来事になります。

 

つまり、人生の価値は自分で決めることができるのです。

 

それは、とりもなおさず、自分の価値は、自分で決めることができるということでもあります。