たまには、のんびりと

8月は、月初めに八ヶ岳でのんびりしてきたので、それ以降は、とくに遠出をすることなくのんびり過ごしています。

 ⇒ 夏は八ヶ岳

 

夫は、会社を辞めたのですが数独協会の仕事が忙しく、たまに打ち合わせに出かける以外は部屋にこもっていることも多く、たまに氣晴らしに夕飯を作ってくれたりするので、『 塗れ落ち葉 』亭主になる心配はなさそうです。

安心しました。

 

 

人生には、何回か大きな節目があります。

 

夫の退職というのも、極めて大きな節目の一つですね。

 

まず経済的な面での変化。

これは、前々から夫と何度も退職後の生活について話し合ってきました。

これからも、数年ごとに話し合い・見直しをしていくことになるでしょう。

 

 

 

次は、時間的な問題。

実は、世の主婦にとってはこちらの方が大問題化かも。

わたしは夫に、

 

出かけようと家にいようと構わない。

ただ、わたしが出かけるときに、

どこ行くの?

何時に帰るの?

僕の食事は?

といったことだけは言ってくれるな。

 

と、はっきり言ってありました。

夫の性格からして、そうしたことを言うようにはならないと思っていましたが、念のためです。

 

それぞれが、別の人格を持った、自立した大人ですから。

 

出かけるときに、どこに行っていつ頃帰るなんてことは聞かれなくても必要なことは伝えておくし、わたしがいない間の食事のことなんて知りません。

おなかが空いたら、食べに出るか、家にあるものを食べればいい。

ただ、それだけのことです。

 

 

わたしたちより上の年代の方は、奥様が出かけられる時には、ご主人の食事の用意もしていかれることが多いかもしれません。

育った時代が違えば、考え方も変わります。

 

どれが一番正しいかなんて、誰にもわかりません。

 

けれど、夫婦というのは、とても個人的な関係だと思います。

もちろん、結婚は家と家がつながるという面もあるのですが、日常に目を向ければ、人間と人間の個人的なつながりです。

その中で、お互いが納得できるのであれば、極端な話、なんでもあり! 

それでいいと思います。

 

家庭は、それぞれの家族が、のんびりくつろげることが第一。

くつろげるために、お互いが何をし何をせず、何を言って何を言わないか。

それが話し合え理解しあえる関係が、一番いいんじゃないか。

わたしは、そう思います。

 

 

 

 

 

もめ事は避けたい

先日、夫とゴルフの打ちっぱなし練習場に行ってきました。

隣の打席には、ウチと同じく一打席を二人で使う夫婦が。

 

打席とベンチの間は、2メートル近く離れています。

周りで練習している人たちに迷惑をかけないように、なにか言いたいときは、どちらかが歩み寄っていって小声で話すのが練習場でのルールです。

ですが、彼らは互いが一球打つたびに、それぞれ打席とベンチに離れたまま、

 

お、いいんじゃない!

 

とか、

 

もう少し、こうやって打ったら

 

と、会話を交わします。

 

先ほども書いたように、打席とベンチの間は2メートルほど離れています。

それが、互いにその場所にいるまま声を掛け合うわけですから、どうしても声が大きくなり、うるさいことこの上ない。

 

夫婦仲良くゴルフの練習場にやってくるのは結構なことですが、周りにとってはいい迷惑です。

 

 

1時間くらいは我慢していたでしょうか。

 

とうとう夫が、お隣のご主人に

 

申し訳ありませんが、もう少し小さな声で話していただけませんか

 

と、声を掛けました。

 

 

あ、どうもすみません

 

と言って、そのあと声のトーンを落とせばいいだけのことです。

 

ところが、このご主人、

 

 

なになに、どうしたの

 

 

と寄ってきた奥さまに、

 

 

しゃべるなってさ

 

 

と言ったのです。

 

 

この一言に、わたしの方がカチンきてしまいました。

 

わたしは、献血では「成分献血になるので時間がかかります」と言われるほど血は薄いのですが、血の気は多い。

 

いい年をして、その子ども染みた言い草は何なんだと腹が立ち、

 

 

しゃべるなとは言っていません。

夫婦二人の会話なのだから、もう少し小さな声でも聞こえるのではありませんかと申し上げたんです。

 

と、きっぱりと言い返させていただきました。

 

 

ほどなくしてその夫婦は帰っていきました。

 

面白いことに、彼らは、こんな掲示板の前の打席でした。

 

 

 

さてさて、これも、互いに人間同士だからこそ。

 

時間がくれば、いずれかどちらかが必ずいなくなるので、その場のやり取りだけで事が済みます。

 

けれど、これが国だったらどうでしょう。

 

いくら、

 

もう少し静かに願えませんか

 

とお願いしても、それがその国の利益に反することならば聞き入れてはもらえないでしょうし、時間が来たからといって国ですから動くはずもなく、ずっとそこにあり続けます。

 

そんな小競り合いがヒートアップすれば、戦争にだってなりかねません。

 

 

 

まずは、自分の国の文化を理解し愛すること。

それは、どの国にも、その国の人々が愛する文化があることを理解し尊重することにもつながる。

そうすれば、もっと世界は平和になる。

 

本気でそう考えるわたしは、もしかしたらとても楽天的でのんびり屋なのかもしれません。

でも、そんな氣持ちを大切にしたいと思います。

そして、そのために自分に何ができるかを考え、行動したいとも思っています。

たぶん、ことだま講座なども、その行動のうちの一つ。

 

だって、

 

言葉は文化

 

なのですから。

 

 

 

 

 

自惚れよう

先日、友人の色鉛筆画が入選したというので、新国立美術館で開催されている日美展に行ってきました。

彼女は全くの独学で色鉛筆画を描き始め、展覧会に応募するたびに入選しています。

 

今回は、初めて色鉛筆画からも大賞が出たということでした。

これまで、色鉛筆画の大賞作品が出なかったのは、油絵や日本画などに比べると少し迫力に欠けるからかと、

勝手に想像していました。

ところが、今回はは大賞作品が出たのです。それがどんな作品なのかにも興味津々でした。

 

 

友人の作品は得意の人物画で、いつもながらの素晴らしい出来栄えでした。

彼女の描く花の絵も好きですが、本人は人物を描くのが好きなようです。

 

 

 

そして大賞作品は、苔むした石段を描いたもの。

(写真はありません)

 

石段は苔の緑に覆われています。

石段を取り囲む草むらも、やはり緑。

キャンパス一面緑色なのですが、みんな違う緑。

 

それぞれの緑が、それぞれの美しさ・爽やかさで輝いています。

 

日の光の当たり具合もよく描けているし、この作品、わたしは好きです。

 

 

例えば、同じ小説でも推理小説と時代小説、どちらが優れているかなんて決めることはできません。

それと同じで彼女の作品と大賞作品、同じ色鉛筆画でも、扱っている題材も描き方も違うので、

単純に比較することはできません。

それにわたしには、それほど絵の知識がないので、技術的にどうとかという話はできません。

 

 

今回の結果は、こうだった。

と思うしかないのかなと。

 

 

 

彼女から来たのメールには、こう書かれていました。

 

 

その作品のよさ、今一つわからず・・・

(中略)

色鉛筆画を十分に評価してくれる展覧会とは思いますが、自分の作品は客観的に見れないものなのでしょうか。

 

 

わたしは小説家を目指していましたが、自分の作品を100%客観的に見ることなんてできませんでした。

 

書き上げた時は、

 

すごい傑作が書けた!

こんな作品、この先もう書けないんじゃないか。

わたしって、すごいかも

 

なんて、書き上げた興奮冷めやらないなかで思ったりするのですが、

時間が経って読み返してみると赤面ものです。

いえ、それ以前に、もう恥ずかしくて読み返す勇気すら、なかなか持てない。

 

 

そんなことの繰り返しでした。

でも、それでいいんじゃないかと思います。

 

書き上げた時は自惚れて、自惚れるから応募する勇気が持てるのです。

 

そして、時間の助けを借りて作品を客観視できるようになるからこそ、

「今度こそ、いい作品を書くぞ」という新たなエネルギーも湧いてくるのです。

 

わたしは、そう思います。

 

 

継続は力なり

 

という言葉があるように、続けていけることが何より大切なのだと思います。

 

わたしはもうほとんど小説を書くことはなくなりましたが、

彼女にはずっと色鉛筆画を描き続けていって欲しいと、一ファンとして、切に願います。