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このところ、

 

死にたい

 

と言葉に出したために命を奪われた人たちのことが、世間を賑わせていますが……

 

わたしは、

 

なぜ、生きているのだろう

死んだら楽になれるのに

 

と思ったことはありますが、それは「死にたい」ということとは、違います。

 

 

 

小学生の頃、苦手な歌のテストが近づいてくると、

 

 

タイムワープできないかな

 

 

と真剣に望みました。

 

 

タイムワープして、戻ってきたら歌のテストは終わってる

 

なんてことにならないかな~

 

なんて。

 

 

でも、それもやっぱり「死ぬ」こととは違います。

 

 

「一時的に姿を消したい」という意味でした。

 

 

 

ねえ、だから安易に

 

死にたい

 

なんて言葉にしてはダメなのです。

 

 

死にたい

 

と思ったときは、その「死にたい」という言葉の中身がなんなのか、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しいのです。

 

 

ちょっと立ち止まって考えてみたならは、きっとその中身は、「死んでしまう」こととは違うと思うのです。

 

 

 

 

 

思いつきのひと言

 

辛い

 

とか、

 

悲しい

 

とか、

 

淋しい

 

とか、

 

苦しい

 

とか、

 

そんな感情のあれこれを、十把ひとからげにして、

 

死にたい

 

という言葉でまとめないで欲しい。

 

それは、言葉に対して申し訳ないし、何より自分の心に対して失礼だと思う。

 

そして、そんな苦しかったり辛かったりすることと同じくらい、『楽しい』こととか『嬉しい』ことも、この世には存在している。

 

けれど、それらには生きていかないと出会えない。

 

 

届ける

その昔、ありがたいことに新聞にエッセイを連載させていただく機会がありました。

 

けれど、井の中の “ 天狗 ” だったわたしは、ただひたすらに自分の言いたいことを、

これでもかという感じで書いていました。

 

そんな頃、ある方から、こんなことを言われました。

 

 

 

雑誌とかなら読者層もある程度決まっているからいいよ。

でも、新聞は最も不特定多数の人が読むものだからね。

 

 

でも、井の中の “ 天狗 ” だったわたしは、

 

だから、なんなの?

 

という感じで聞く耳を持ちませんでした。

 

 

 

今、こうしてブログにあれこれ書くようになって、『伝えたい』という思いは、昔と変わらずあるのですが、

それを伝えるのではなく、どう優しくお届けできるのか、そんなことを考えながら書くようになりました。

 

 

昔言われたことが、20年近くも経ってようやく理解できたという、なんとも間抜けなお話。