先人たちの苦労の跡

地方に旅行に行った際、中途半端に時間が余った時など、わたしは地元の文学館に行きます。

そうした所には、たいてい地元出身の作家の生原稿が展示されています。

 

そして、それらを見ると、わたしから見たら「この人は天才だ!」と思える作家であっても赤だらけ、つまり、いっぱい推敲していることがよく分かります。

そんな推敲の跡が残っている原稿を見ると、なんかジワーっと感動します。

 

***

 

昨今は、わたしもそうですが、みんなパソコンで書いて直すので、原稿を直した苦労の跡を見ることができません。

 

そもそも生原稿の展示なんて、できないし・・・

 

それって、もったいないなぁ~と思います。

 

誰のどんな原稿であっても、それを書こうと思った経緯や思いがあり、それを形にするための涙ぐましい努力があります。

 

文学館の生原稿の展示は、それを目の当たりにする、いい機会なんですけどね。

 

ふと思いついて、ひょいと書いて、はい完成! なんて、どんな世界でもまずあり得ない。

 

ふと思いついて、ひょいと書いて、そして完成させるまでの間には、推敲という地味だけど、なくてはならない作業があるのです。

 

その作業は、時に苦しいけれど、新たな創造を生み出す喜びに満ちています。

 

7.生まれて初めての夢のお告げ

父が亡くなって10日後が私立の、1か月後が公立高校の入試日でした。

 

病院に泊まり込んでから葬式が終わるまで、約1週間学校を休んでいました。

わたしは、不安でした。

それでも、もし公立に落ちて私立に行くことになったら、一生懸命勉強して特待生になって、学費を免除してもらとうと本気で考えていました。

 

***

 

まさに今日が私立高校の入試日、という日の朝方のお話です。

 

わたしは夢を見ました。

 

亡くなったはずの父が、わたしに黄色いワンピースを買ってくれるという夢です。

 

わたしは、目が覚めた瞬間、

 

受かった

 

と思いました。

 

父がワンピースを買ってくれたからではありません。

特に黄色いワンピースが好きだったわけでもありません。

でも、夢から目覚めた瞬間、そう思ったのです。

 

これは、その後、夢から様々なメッセージを受け取るようになってから分かったことですが、夢からのメッセージというのは、理屈ではありません。起きた瞬間に、答が心の中にあります。

それが、夢からのメッセージです。

夢の意味をあれこれ考えなければならないのは、まずメッセージではありません。

 

話を元に戻しますね。

目覚めた瞬間に受かったと思ったわたしは、母に言いました。

 

わたし、受かったから。

 

母は、びっくりしたように、こう言いました。

 

何言ってるの?  これから試験を受けるのに…

 

同じ学校を受ける仲間と待ち合わせて会場に向かう時にも、わたしは皆に、

 

わたし、受かったから

 

と言い続けていました。

我に返ったのは、試験が終わって帰る時です。

 

どうしよう~  皆に「受かる、受かる」って言ってしまって。もし、落ちたら、どうしよう~

 

試験の結果は『合格』でした。

それも、本当に特待生になれるほどの高順位で。

通常、入試の結果の詳しいことは教えてもらえないことになっているらしいのですが、あまりの高順位に先生も驚いたようで、こっそり教えてくれました。

 

 ◎◎◎  ⏪ 前    続き ➾●●●

人生の価値

わたしは、中学3年生の時に、父を急な病で亡くしました。      連載中のプロフィールはこちら※※※

 

そして、その時に決めたことがあります。

それは、

 

命ある限りは、何があっても生きる。

 

ということ。

病気で、あるいは事故で、死にたくなくても死ななければならない人もいるのです。

だったら、生きてる限りは生きよう。

 

そう決めました。

 

もうひとつは、

 

あの時、お父さんが死んでしまったから、こんなふうになっちやったんだ!

という人生ではなく、

あの時、ああいう経験をしたおかげで今がある。

と、思える生き方をしよう。

ということです。

 

どちらも、理屈ではありません。

ふいに、そう思い決めたのです。

 

それが、“ 気づき ” というものなのでしょう。

 

その後も、数々の出来事がわたしの人生に起きました。

 

けれど、どんなに絶望的になったときでも、このふたつの考え方が、わたしを支えてくれました。

 

***

 

人生には、色々なことが起こります。

けれど、出来事は、所詮出来事。

単なる事実に過ぎません。

 

辛かったり悲しかったりしたとしても、それがイコール “ 悪いこと ” にはなりません。

ある出来事が自分の身に起きた時、それを踏まえてどう生きるかは、本人の自由です。

起こる出来事の選択権はなくても、生き方の選択権は、この手の内にあります。

 

父が亡くなった時、わたしは、神様から「この人生を生(行)きなさい」と言われたのでした。

 

けれど、その指し示された道をどう進むかは、わたしの自由。

 

道端の花を愛でながら行くもよし。

バイクに乗って飛ばすもよし。

ヒョコヒョコと横道へ逸れるのも、また有りです。

 

***

 

辛かったり悲しかったりした出来事であっても、それを栄養にできれは、それらは、結果として、自分にとって良い出来事になります。

 

つまり、人生の価値は自分で決めることができるのです。

 

それは、とりもなおさず、自分の価値は、自分で決めることができるということでもあります。