「マリンブルーな季節 2019」15

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 11月3日。真奈子は再び鹿鳴館にやってきた。

 山内がKIXのメジャーデビュー決定のニュースを知らないはずがない。どこかで、きっと聞いたに違いない。

 山内は来る。今夜、この鹿鳴館にきっと来る。真奈子は、確信していた。

 店の前に掲げられた看板には、グリーンのビロード地に《KIX メジャーデビュー決定! バンザイライブ》という金色の文字が躍っていた。

 前座のバンドが舞台に現れただけで、すでに満席、立ち見さえ出ている会場は、異様な盛り上がりを見せ、ことあるごとに「デビューおめでとう」のバンザイコールが飛び交った。

 しかし、真奈子はその渦に巻き込まれることもなく、ただひたすら舞台の袖をじっと見つめていた。今はどうなっているか知らないが、ここまでKIXの面倒を見てきたのは、山内だ。この場所に彼がいないわけがない。

 だが、いくら探しても山内の姿は見つからなかった。祈る思いで客席に視線を移してみたが、やはりいない。

 1人席を立って、楽屋口に向かう。

 あ……

 楽屋口に向かう廊下の奥まったところに、山内ともう1人、柱の陰になって顔は見えないが、人の気配がした。

 山内の深刻そうな表情に、真奈子の胸は騒いだ。

 そっと近づく。

 低い声が、切れ切れに聞こえてきた。

「手紙、書いたんだけどね……」 

 山内の声だ。

「……どんなに、君のこと……」

 とつとつと語りかけるような声が続く。

「できれば、ずっと……、ずっと見守って……。なあ、いいだろ、邪魔しないから。ね、ね。本当に愛して……」

「止してくれ! もう止してくれ」

 若い男の叫ぶような声がしたかと思うと、山内の体が激しく突き飛ばされて、よろけた拍子に壁に強く背中を打ちつけた。

「山内さん、あんたの気持ちは嬉しい。感謝もしてる。だけど、ダメだ。ダメなんだよ。俺たち、元々住む世界が違うんだ。無理なんだよ。なあ、頼むよ。忘れてくれよ」

 拝むように山内の肩を揺さぶる。その時、相手の顔が見えた。

 KIXのヴォーカルだった。

 真奈子の足が竦んだ。

「おい、いつまで話してんだ。もうすぐ出番だぞ」

 楽屋から見慣れない男が顔を出した。

 山内より若くて見栄えのする、しかしどこか意地の悪そうな顔の男だった。

「すみません、すぐ行きます」 

 ヴォーカルが、取り繕うような笑顔を見せて、男に言葉を返した。そしてお辞儀をするように軽く目を伏せると、そのまま無言で足早に楽屋奥へと姿を消した。

 うなだれていた山内がゆっくりと顔を上げる。立ち尽くす真奈子の強張った顔。二人の視線がぶつかった。

 山内の表情が一瞬凍りついた。が、次の瞬間、力なくニヤリと笑った。

「わかっ…ちゃっ……た…かな」

 乱れた髪を直そうともせず、歪んだネクタイもそのままに、自嘲気味な笑みを無表情な顔に貼り付けたまま、夢遊病者のような足取りで出口に向かうと、やがて夜の街に紛れて見えなくなった。

「海の泡になって、消えていく……」

 真奈子は、立ち止まったまま動けずにいた。

「変わりたいって、言ったやない」

 小さな声で呟く。涙は出なかった。

 虚ろな眼差しで出口を見つめる。街路では何も知らない人々が、無責任な足取りで忙しく行き交っている。

 のろのろと、重い足を引き摺るように出口へ向かう。

 美しく着飾った女たち。その女の肩に手を回し、浮かれた調子で歩いていく男たち。

 秋の夜風が足元をかすめ、落ち葉を玩ぶ。

「変われば良かったんや」

 見上げれば、星ひとつ見えない夜の空に、青白い月が寂しげにぶら下がっていた。

「なんで変わらなかったん。私では駄目やったん。なあ、駄目やったん!」

 通りすがりの男が、真奈子を振り返った。

 

 

 

 

「あ、お母ちゃん」

「なんや、真奈子かいな。めずらしいことも、あるもんや。あんたから電話してくるなんて」

「郵便小包、届いたで」

「そうかぁ。ちゃんと食べてるかぁ」

「ちゃんと、食べてるよ。それよりなあ、1つ聞きたいことが、あるんやけど」

「なに」

「あのな」

「なに、早よ、言いな。電話代、もったいないやろ」

「もう、お母ちゃんたら」

 いつもなら、そこで電話を切ってしまうのだっが、今夜は違った。

「お母ちゃん、電話代なんて心配せんでも、ええて。スマホの家族割りって……まあ、ええか。それより、あのな、私の名前な、どうやって付けたん」

「どうしたん、藪から棒に」

「なんだって、いいやん。知りたいん」

「そうか、言うたことなかったかいな。そうだったっけなぁ―」

 母は、何かを懐かしむような口調で続けた。

「お父ちゃんいうたら、生まれてくるのは男の子、思い込んどってなあ。そしたら、女の子やったろ。もう、慌ててしもて。そやそや、ああ、可笑し。だんだん思い出してきたわ。お父ちゃん、びっくりするやら、喜ぶやらで、大変やった。で、急いでお寺の住職さんとこ行って、ほら、あんたも覚えてるやろ、あの……あれ、なんだったけな、ほら、あの……」

「もう……で、その住職さんが、どないしたん」

「あ、ま、ええか。そいでな、その住職さんに名前考えてもろたん。5つ6つ、あったかいなー。で、お父ちゃんとお母ちゃん、2人してああでもない、こうでもない、毎日その名前眺めて相談してな。そうして決めたんよ。真奈子は眼や。世の中しっかり見て、幸せ掴んで欲しい思たんよ。どや、これで、ええか」

 涙で返事は出来なかった。

 ただ、黙って何度も何度も頷いた。

 

 

つづく