連載小説『お由布』 その十五

 十五 

 女でしくじったのだと、あの日幸吉は言った。

「俺は、いいかげんな男でね。女一人幸せにしてやることもできない奴で。いざとなったら、すぐに逃げ出しちまうような情けねえ男なんだよ」

 とも言った。

「まだ、忘れられないのですか」

 お由布は尋ねた。だから、いまだに一人身なのかと。

「ああ、そうだね」

 幸吉のひと言に、思わず足が止まった。気がついた幸吉が慌てて付け加えた。

「いや、そんなんじゃなくってさ。違うんだ。忘れられないのは、相手の女のことじゃなくって、その時のダメな自分のことさ」

 近江の商家に奉公していた幸吉は、そこの跡取り娘といい仲になったそうな。ところが、そこへ婿取りの話。世間知らずの跡取り娘は、幸吉に一緒に逃げようと迫ったのだそうだ。

「だけどさ。俺、まだ手代にすらなってなかったし。そんな俺がどこにどう逃げて、お嬢さんを養っていけばいいのか。それに、もし店にばれたらとか、あれこれ考えてたら、なんだか怖くなっちまってね」

 で、ある晩、こっそりと店を抜け出して、そのまま江戸に出てきてしまったのだそうだ。

「なんせ若かったし。俺も世間知らずだったしね」

 頭を掻きながら幸吉は続けた。

「あれから10年。俺もどうにかこうにか食っていけるようになって」

 風の便りに、お嬢さんも婿を取って幸せにやっているとそうな。

「だから、もう許されてもいいかなと思うんだ。そして…」

 幸吉が、お由布の目を見つめて言った。

「今度こそ、今度こそ、逃げないって決めたんだ」

 早々と輝く一番星が、二人を見守っていた。

 

 

 清之助が出掛けに、

「たまには外に気晴らしに行くといい。何か気に入ったものがあれば、買ってはどうか」

と、めずらしく言った。

 髪を整え、紅も引いた。手文庫の中から取り出した金を財布に入れて、お由布は外に足を踏み出した。青く澄み切った空が、どこまでも続いている。

 少し気分を変えて、柳原から右に折れてみた。川岸に沿って歩いていくと、やがて両国橋。橋のたもとから向こう岸に目をやる。視線の先には、お由布の奉公していた「日野屋」がある。今ごろはすでに大勢の客が店を訪れて、皆忙しく立ち働いていることだろう。店のある方角に向かって手を合わせると小さく頭を下げた。広小路を横切って隅田川沿いにしばらく行くと浅草に出た。

 十五年前の十二月二十五日。父は、ここで命を落としたのだった。仕事納めの朝だった。

 浅草と言えば浅草寺。ここ一ヶ所だけで、あらゆる現世利益の願望が叶うといわれる庶民信仰の中心地であった浅草寺は、江戸随一の盛り場でもあった。境内は、そのご利益にあやかろうという老若男女で、随分の人出だった。人いきれと久しぶりの外出とで、たまらず近くの茶店に入る。一息ついたところで、本堂の観世音菩薩をお参りし、数ある店をのんびりと覗いて回る。

 一軒の店の前で、足が止まった。店先に置いてある、赤い玉簪が目にはいった。いかにも子ども向けの粗末な作りではあったが、心に響くものがあった。

「おとっつぁん」

 お由布は迷わず、その赤い玉簪を買った。

 めずらしく早く帰ってきた清之助は、買ってきた簪を見ると、

「おや、まあ。また、随分と子どもじみたものを。もうちっと、ましな物はなかったのかい」

 やっぱりお前はと、目が言っていた。

 だが、お由布は構うことなく、その赤い玉簪を鏡台の前に供えるようにそっと置いた。

 

 

 

 

いよいよ次回が、最終回です。