連載小説『お由布』 その十四

 

       十四

 

 お由布が二度目に幸吉に会ったのは、それから三月ほど経った頃のことだった。

 江戸店では定期的に京都の本店からも人がやってきて、重役たちの会合が開かれる。今日がその日で、清之助の帰りは随分と遅くなるはずである。

 

 あの晩以来、二人の間には目には見えない溝ができたようだった。お由布に対する清之助の態度は、表面上はこれまでと何ら変わりはなかった。しかし、その瞳の奥に、恐れや戸惑いのようなものが見え隠れすることに、お由布は気がついていた。

 

 この時期には珍しい涼やかな風に誘われて、なんとなく町へと出かけてみた。だが、これといって行くあてがあったわけではない。ぶらぶらと人の流れについて歩いているうちに、昌平橋を渡り明神下を通り抜け、気がつけば下谷広小路にまで来ていた。左に行けば湯島天神。そのまま真っすぐ行けば、上野、そして池之端だ。

 池之端は、父と母との懐かしい思い出のある場所であると同時に、辛い別れを経験した、複雑な思いの交錯する場所であった。お由布の足は躊躇した。

 

 さて、その頃ちょうど湯島天神では信濃善光寺の出開帳の真っ最中であった。そのおかげもあって下谷広小路にも、軽業・足芸・独楽回しなどの見世物小屋や、飴・酒・餅から鉢植え・一枚絵などを売る店、あるいは天ぷら・そば・寿司などの飲食店がずらりと軒を並べ、大変な賑わいとなっていた。その上、出開帳に合わせて売り出された富くじ目当ての人々も集まって、この界隈は大勢の人たちでごった返していた。湯島天神は、目黒不動・谷中感応寺とともに『江戸三富』と言われ、富くじで大変な盛況を見ていたのである。

 その大勢の人込みの中に、確かに幸吉の姿が見えた。お由布は訳もなく嬉しくなって、後を追った。

 幸吉は人混みを外れると、慣れた足取りでどんどんと脇の路地へ入っていく。その後をお由布は見失うまいと必死で追う。

 やがて幸吉は、古びた暖簾の掛かった一軒の蕎麦屋に入った。

 しばらくは、店先にたたずんで弾む息を整えていた。そうしてやっと暖簾をくぐると、店の奥で幸吉が一人、盃を傾けている背中が見えた。

 一瞬、そばに寄るのが躊躇われた。ただ夢中で追って来てしまっただけに、どうしてよいかわからなくなったのだ。

 そんな気配を察したのか、店の主人が、

「幸さん、珍しい。お連れがあったのかい」

と、声をかけてくれた。

 振り向いた幸吉は、ちょっと驚いて、そして眩しそうな笑顔を見せた。

「すみません。ふらふら歩いていたら、何だかこんなところにまで。いえね、たくさんの人について歩いていたら、いつの間にか。で、気がついたら、ふいに心細くなってきて、そうしたら、幸さん、いえ、幸吉さんの姿が見えたんで、それで、つい」

 どうにも上擦ってしまい、自分でも要領を得ない話しぶりであることは十分承知しながら、それでもなにか言わなければと思いつつ、やっぱりうまく話せずにいると、

「まあ、とにかく掛けたらどうだい」

と、幸吉が穏やかな声で言った。それで、どうやらほっと腰を落ち着けた。

「その後、元気でやってるかい」

 含みのある言い方で、幸吉は聞いた。

「え、ええ。もちろんですとも」

 慌てて返す。

「そうかい、そりゃ良かった」

と、顔色を確認するかのようにじっと見る。お由布の頬が火照る。

「そうだ、なんか食うかい。一応蕎麦屋の暖簾が掛かってはいるが、ここの亭主は元料亭の板前でね、店の造りは古くて汚いが、旨いもん食わせるぜ。なあ、おやじ」

「てやんでぇ。旨いもん食わせなきゃ、お江戸の海が泣かぁ」

 店の奥から亭主の濁声が響く。

「はっはっ。違いねぇ」

 幸吉も負けずに大声で応える。店中に、気さくで大らかな空気が一杯に広がっていった。氷のように硬く凍っていた心が、少しずつ融けていく。

「な、面白いおやじだろ。そら、遠慮しねえで、何が食いたい」

「いえ、あの、私は」

 お由布は、ついいつもの癖でうつむいた。

「ふーん、そうかい。じゃあ適当に頼むよ」

「ええ、お任せします」

「酒は、どうだい。少しは飲めるのかい」

「いえ、あ、ええ」

 小さな間が空いて、幸吉が尋ねた。

「あんた、いつもそんなかい」

「え」

 驚いて顔を上げる。

「あんた、いつもそんな風に、黙ってうつむいて、ただ、ええ、ええってばかり言ってるのかい」

 膝の上に置いた手に力が込もる。

「言いたいことがあるなら、きちんと言いな。そら、ちゃんと口がついてんだろ」

 幸吉がおどけたように、自分の口に人差し指をあてて言った。

 涙がこぼれた。恥かしさと情けなさで涙が止まらない。席を蹴って出て行こうかとすら思った。が、体が動かない。

「幸さん、こんな可愛らしい女の人を泣かしちゃいけないよ」

 いつも間にか、横に店の亭主が立っていた。手にしたお盆には、徳利と肴が載っていた。

「まったく、幸さんは女の扱いを知らないねえ。そんなだから、いつまでたっても……」

「うるさい。横から偉そうに口を出すな。亭主は奥で、黙って料理を作ってりゃいいんだよ」

「へん。うるさくて悪かったな」

と、亭主は幸吉に向かって舌を出し、

「幸さんはこう見えても、やさしいとこ、あんだよ。許してやってくんな」

 お由布には、優しく声をかけた。

「うるせぇ、うるせぇ。余計なこと言ってないで、盆の上のもんを置いたら、さっさと奥へうせろ」

 泣いていたはずが、笑っていた。おかしくて、笑いが込み上げてきた。

「お、良かった。機嫌、直ったかい。悪かったな。俺が悪かった」

 幸吉は、顔の前で両手を合わせ大げさな身振りで謝ると、盃に酒を注いだ。

 お由布の体から、ふっと力が抜けた。

 父のこと。母のこと。ふた親との悲しい別れ。そして日野屋での奉公のこと。お由布は、次から次へと話した。幸吉は、「へえ」「そうかい」「なんとまあ」など、話の合間合間に上手に相槌を打ちながら、お由布の話を、ずっと聞いてくれた。

 そんな幸吉を前にして、けれど、どうしても清之助との生活については話せなかった。話してしまったら、その場で崩れ落ちてしまいそうな自分がいた。

 

 気がつくと、障子越しに日の傾いてきている様子が見て取れた。

「いけねぇ。すっかり長居しちまった。帰らないといけねえな」

 幸吉に見つめられ、思わずお由布は目を逸らした。今日は清之助の帰りは遅い。だから大丈夫だと言いたかった。まだ、大丈夫だと言いたかった。もう少し話していたいと言いたかった。でも、言えなかった。

 私は一体、何をしているんだろう。亭主持ちのくせに、こんなところで他の男と酒を飲むなんて。私は、なんて女なんだろう。

 楽しかったのだ。そう、楽しかったのだ。楽しくてたまらなかったのだ。本当に楽しくて、楽しくて。だけど……。

 お由布の沈黙は続いていた。

「よし、家の近くまで送っていこうか」

 家までと言わないところに、幸吉の心配りと遠慮が感じられて、お由布は胸が詰まった。

 力なく、よろよろと立ち上がり、店を出る。

「作治さんから聞いたんですが……」

「へー、何をだい」

「幸吉さんはもとは近江の商家に奉公に出ていたとか」

「ああ、そのことか」

「それが、どうして」

「女でしくじっちまってね。今じゃあ、こうして一人でこそこそと商売してるよ。ざまぁねえな」

 お由布の胸が、ちくりと痛んだ。

「俺なんか、俺なんざ、いいかげんな男でね。女一人幸せにしてやることもできない奴で。いざとなったら、すぐに逃げ出しちまうような情けねえ男なんだよ」

 そんなことはない。幸吉さんは、そんな人じゃない。私には分かる。と、お由布は幸吉の肩先に語りかけた。

 やがて見慣れた町並みが見えてきた。見上げれば、暮れかけた空に早々と一番星が光っていた。

「ほら、もう大丈夫だろう」

 幸吉が足を止めて振り向いた。仕方なしにうなずくと、「じゃあな」と言いしな、ふいにお由布の体を抱きしめた。

 着物を通して伝わってくる幸吉の体の温もりに、お由布の頬を涙が伝った。

「なんで、泣くことがあるもんか」

 幸吉はお由布の背中をぽんぽんと軽くたたくと、太い指でこぼれる涙をそっと拭った。

 背中に幸吉の視線を痛いほどに感じながら、お由布は我が家への道を振り向きもせずに一目散に歩いた。

 

 あの晩以来、切れてあてもなくぶら下がっていた糸の先が、気がつけば別の男につながっていた。この糸なら、もう一度掴んでみようかと思った。掴んでみてもいいかと思った。この糸をたぐっていけば、きっと今度こそは男の胸にたどり着ける。そう、信じる気持ちが湧いてきていた。

 

 

つづく