連載小説『お由布』 その六

 

その日、近所へ使いに出かけた帰り道、お由布は油問屋の前で、作治にばったり出くわした。

 作治というのは、主に新橋から日本橋に挟まれた下町を中心に、貸し本屋をやっている男である。その日その日を暮らすのに精一杯の庶民にとって、本などという値段の張るものは、作治のような貸し本屋から借りて読むのが一般的だった。

 ただひたすらに生きてきて、突然に目の前に垂らされた細い糸。救いの糸と信じてつかまり降りた先が、清之助の膝の上だった。

 体は膝の上から降りることを許されない。だが、本を読んでいる時だけは、誰にはばかることなく、心が自由になれるのだった。たとえ、それが一時の借りものであろうとも。

 作治はその自由な世界を定期的に運んできてくれるばかりか、世間話というおまけまで持ってきてくれる。

 始めのうちは、そうした時を持つことで、なんとか凌いでいけるように思われた。しかし、心が自由を味わえば味わうほど、その後の渇きが、一層辛く感じられた。ほんのわずかな時でも解き放たれる楽しさを知った心は、より一層多くの自由な時を欲するようになる。

 自由という空気を吸って、のびのびと大きく膨らんでいった心は、やがてお由布の心と体を揺さぶり始めるのだった。

 

 

「おや、作治さん。こんなところで店開き」

 お由布は、積み上げられた本のそばにしゃがんで尋ねた。

「これはお由布さん。いえ、なに、こちらのご主人に本をお貸ししたところで。店先をお借りして、ちょいと荷を整えていたところでさぁ」

「あら、もうしまうところだったの。それじゃあ、悪いわねえ」

「なに、かまやしません。もう一度ここで荷をほどいたところで、誰が文句を言うものかってね。ほらよっ、と」

 作治は機嫌良く、包みかけた荷を再びお由布のために広げて見せた。

「おいらは鯱見て育った、正真正銘の江戸っ子でぇ。早くに家族は死んじまったけど、それでもおてんと様と米の飯はついてまわらぁ」

 これが作治のいつもの口癖である。先の江戸の大火で両親と妹までを亡くしていたが、だからといって陰にこもることもなく、毎日元気に本を担いで、まさにお天道様の下を闊歩していた。

 そんな威勢のいい作治と話していると、つかの間でも胸のつかえを忘れることができる。お由布が作治から本を借りるのには、案外そんな理由があったのかも知れない。

 目の前に広げられた草双紙類の数々を眺めつつ選びあぐねていると、

「これなんか、面白いぜ」

と、脇から聞き慣れない声がして、浅黒く日焼けした手が一冊の本をお由布の前に差し出した。

 清之助の男らしからぬ白くてきれいな指をしている手とは対照的に、それは日に焼けて肉厚で太い指をしていた。

 差し出された本を前に躊躇していると、

「なんだい、幸さんか。いつ江戸に戻ってきたんだい」

 作治が気安そうに、その男に声をかけた。

「ああ、三日ほど前にな」

「上方は、どうだったい」

「相変わらずだね」

「へえ、そうかい。ところで、商売の方は」

「そうさな。こっちの方も相変わらずかねぇ」

 幸さんと呼ばれた男は、満更でもなさそうに白い歯を見せて、陽気な笑い声をたてた。

 お由布の心が、どきりと揺れた。

「ほら、こいつは絶対に面白いって。まあ、読んでごらんな」

 考えあぐねているお由布の様子を見て取って、その男は重ねて言った。

「そんなもんばっかり読んでたって、じき飽きちまう」

 無意識のうちに手にしていた草双紙にちらりと目をやって、男は言った。馬鹿にされたと思った。お由布は頬が赤くなるのを感じた。気を紛らわせてくれれば、それで良かったのだ。目は文字や挿絵を見つめながら、心はいつもどこか見知らぬ世界を漂っていた。

「まあ一度読んでごらんよ。お由布さんは読み書きが達者だから」

 作治は続けて言った。

「幸さんは、こう見えても中々、目が肥えてるからね。信じていいよ」

「けっ、こう見えてもは余分だぜ」

「はは。すみません」

 男二人の軽妙なやり取りに、お由布も釣られて笑った。ふと、この前笑ったのはいつだったかと、お由布は記憶を辿った。

「じゃあ、お由布さん」

 作治は言いながら、手にしている草双紙を取り上げると、他のものとひとまとめにして、もう肩に担いでいた。

(信じていいよ)

 お由布は、幸さんこと幸吉の勧めた本を、胸に押し戴いた。胸の奥に温かなものが、ほのかに広がった。

 

つづく