連載小説『お由布』 その四

   四

 

 日野屋の人々を新しい家族とも思って生きてきたお由布にとって、彼らと離れることは実に心寂しいことであり、考えたこともないことなのだった。しかし、突然の縁談話によって、新しい世界が開けようとしていた。

 祝言の日、初めて見た清之助は、大店の奉公人としての歳月の積み重ねからか、年齢以上の落ち着きを持っており、その柔らかな物腰は、お由布に安心感を与えた。      

    この先は良き妻として、そしていずれは良き母として、清之助と共に手を携えて、これからの人生を穏やかに生きてゆけばいい。清之助という頼れる存在を得た今、もう一人でがんばる必要はない。生きるために働く必要もなくなった。お由布の胸は、新しい生活への夢や希望ではちきれそうであった。

    新たな住まいは、清之助の店がある駿河町から程近い松田町に定まった。

 

   三橋屋というのは、いわゆる江戸店持京商人で、奉公人は全て本店のある京都出身者である。子供たちは幼いうちに本店の京都で奉公に上がり数年の修業ののち、江戸店勤めのために、はるばる街道を旅してやってくる。そのうちの一人が清之助であった。

    幼くして親元を遠く離れ、言葉も習慣も違うこの江戸で、二十年近くも仕事に精を出し、支配人にまでたどり着いた清之助は、すこぶるつきのまじめな男であった。 

   祝言を挙げてから五日目、お由布は日野屋にお礼の挨拶に行った。主夫婦は、早くして先立っていったお由布の両親も、これで安心するだろうと穏やかな笑顔を見せ、数々の土産まで持たせてくれた。そんな表情を見せられると、お由布は胸の中にある小さな不安を口に出すことが出来なかった。

   実は……。

 妻となり初めての朝。明六ツの鐘が鳴るのももどかしく、いそいそと起き出した。朝食の準備にかかるためである。開けた土間の窓からは、朝靄を震わす豆腐や納豆売りの声が聞こえてくる。へっついに掛けた鍋からは飯の炊ける香ばしい香りが漂ってきている。まもなく蜆売りが来るだろう。所帯を持って初めての朝は、炊き立ての飯に蜆の味噌汁、そして焼き魚だ。 

  遠くに聞こえていた蜆売りの声がやがて近づいてきた。お由布は流しに置いてあったざるを手に、朝日の降り注ぐ往来をいそいそと駆けて行った。

   父と母を立て続けに亡くし、奉公に出てからは他の奉公人との共同生活。それらを思えば、今この手にある生活のいかに恵まれていることか。

 蜆を求めると、お由布は朝餉の支度にとりかかった。部屋の奥では、まだ清之助が静かな寝息をたてて眠っている。昨夜の出来事が頭を過りお由布は一人頬を染めた。おかげで、うっかり魚を焼き過ぎてしまった。それでも何とか膳は整のった。

 丹精こめた膳を前に、清之助はどんな表情を見せるだろう。嬉しそうに笑うのか、照れ臭そうに俯くか。美味いと言って食べてくれるか、魚が焼けすぎだとからかうだろうか。

   だが……。

 奥の部屋から起き出した清之助は、膳を見るなり顔をしかめた。一体なにが気に入らないのか分からない。まずは熱いお茶かと、慌てて湯飲みを差し出すと、

「こんな熱いお茶が飲めるか」

と、短く言い放った。

 呆気に取られて声が出ない。ただ呆然と清之助を見つめるばかり。

「何をしている。早く茶を入れ直せ」

  清之助の言葉が冷たく響いた。お由布は、慌てて冷ました湯でお茶を入れ直した。清之助は、そのお茶を膳のご飯にかけるとすするように食べて出掛けていった。

     お由布は、何も言えず呆然と見送った。自分の描いていた生活とのあまりの隔たりに、心の奥につんとした痛みが走った。

 

 結局、日野屋には清之助のまじめさや、頼りになる様子ばかりを話して聞かせるに留めた。折角、ほっと安心している与平たちに、余計な心配はさせたくなかったからである。

  挨拶を終えて松田町の家に戻ると、夕餉には、薄味の煮物にお初の持たせてくれた瓜の浅漬けを並べた。

 清之助が帰ってくると、お由布は日野屋に帰してもらった感謝の意味も込めて、楽しく過ごしてきた時を一生懸命に語って聞かせた。ところが、清之助はふっと一息つくと、

「お前が一人で楽しく過ごしてきた話を聞かされて、何が面白い。そうした話は二度としてくれるな」

と言って、後はひと言も口を利かずに食事を終えた。

    幼い頃から親元を離れて奉公一筋に励んできた清之助に、日野屋での楽しく過ごした話などをした自分に気配りがなかったのだろうかと思いあぐねていると、

「何をぼんやりしている。お前のいた日野屋では、主の機嫌を損ねても、店の者はそうやって、ただ、ぼんやりとしているのか」

   お由布には、清之助の言わんとすることがわからなかった。

「言うべき言葉があるのじゃないか」

    苛立つように、清之助が短く言った。はっとしたようにお由布は言った。

「申し訳ありませんでした」

「そうだ。それでいい。この家にあっては、わたしがお前の主だろう」

    お由布の心から、光が消えた。

 

 つづく